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zoom RSS 音吉・次郎吉・重吉・久蔵・津太夫。5人に共通する経験は?

<<   作成日時 : 2016/04/09 08:18   >>

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★歴史★
問題:江戸時代後半のお話です。音吉・次郎吉・重吉・久蔵・津太夫という5人の人物がいます。庶民ですので、苗字はほとんどなかったのかな。
■彼らには、ある共通した特徴があるらしい。ほとんどの人は体験したことのない貴重な経験があることのようです。それは次のどんなことでしょうか。ちなみに彼らはお互いにお互いのことをほとんど知らなかったと推測されます。
[い]泥棒として活躍しながら結局捕まらなかった
[ろ]水呑み百姓だったが発明により富と名声を得た
[は]浄瑠璃語りとなって大成し、巨万の富を得た
[に]百姓一揆の首謀者として処刑された
[ほ]遭難して外国船に救助された
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]遭難して外国船に救助された
説明:彼らのうち、重吉だけは小栗という姓があったようです。他の人たちは海運業だったのか、漁業だったのか。いずれにせよ庶民だったらしく、苗字はとくに残されていないらしい。
■音吉という人は文政(ぶんせい)4年(1821年)に尾張国に生まれたらしい。没年は不詳です。天保(てんぽう)3年(1832年)、11歳ごろでしょうか、廻船宝順丸(ほうじゅんまる?)で遭難したとのこと。14 か月後アメリカ西海岸に漂着したそうです。食料がよくもちましたね。。ロンドン、マカオを経て天保(てんぽう)8年(1837年)に英国船モリソン号で帰国しようとします。でも、異国船打払令により砲撃されてしまうわけですね。いわゆる モリソン号事件とのこと。のち上海で暮らし、最後はシンガポールで病死したとのこと。音吉を含めて全7人の日本人漂流民がモリソン号に乗っていたようですが、みんな帰れなかったらしい。お気の毒でした。
■次郎吉という人は文政(ぶんせい)4年(1821年)生まれらしい。富山の出身のようです。天保(てんぽう)9年(1838年)、17歳前後のときに長者丸に乗り仙台沖で遭難したそうです。半年の漂流後、アメリカの捕鯨船に救われハワイに上陸します。その後カムチャツカ、アラスカを経て択捉(えとろふ)島に天保(てんぽう)14年(1843年)にようやく帰着したらしい。嘉永元年(1848年)には故郷にも戻れたらしい。遭難の記録「蕃談(ばんだん)」や、「時規物語(とけいものがたり)」などに情報を寄せているようです。
■小栗重吉という人は天明(てんめい)4年(1784年)ごろ三河国に生まれ、嘉永(かえい)6年(1853年)に亡くなったらしい。文化(ぶんか)10年(1813年)、29歳ごろでしょうか、督乗丸(とくじょうまる)で江戸から尾張へ戻る途中で遭難したらしい。16 か月の漂流後、太平洋の向う側でイギリス商船に救われたとのこと*4。その間は積み荷で食いつないだり、魚を釣ったりしていたらしい。それでも多くの乗組員は壊血病や栄養失調で亡くなったようです。この484日間の漂流後の生還は、日本では最長記録と見られているとのこと。メキシコ、アラスカ、カムチャツカを経て、天保(てんぽう)14年(1843年)、59歳ぐらいでしょうか、なんとか帰郷を果たしたらしい。口述筆記で「船長(ふなおさ)日記」を残しているとのこと。またロシア語辞典「ヲロシヤノ言(おろしゃのげん)」を編んだようです*1。単なる底辺の人ではないのかもしれませんね。なお、口絵は重吉が死んでいった仲間の霊を弔うために建てた慰霊碑だそうです。よく見ると昔の船の形をしていますね。
■久蔵という人は天明(てんめい)7年(1787年)に生まれて嘉永(かえい)6年(1853年)に亡くなっています。享年70に近いのですから、当時としては長生きですね。文化(ぶんか)7年(1810年)、歓喜丸(かんきまる?)に乗り紀州沖で遭難します。カムチャツカ半島に漂着したらしい。凍傷のためオホーツクで片足を切断したとのこと。他の乗組員はすぐに帰国しましたが、彼だけが療養のために逗留したようです。そのあいだに医師の助手として牛痘接種の技術を覚えたらしい。文化(ぶんか)10年(1813年)、万国図、種痘苗(しゅとうびょう?、天然痘の予防接種の苗)などを携えて箱館に帰着したそうです。広島出身だったのかな。当時の広島の藩主に予防接種を進言したそうですが、一笑に付されたらしい。久蔵の情報をもとに「魯斉亜国漂流聞書(ろしあこくひょうりゅうききがき)」という本が残されているようです。
■津太夫という人は1744年(延享(えんきょう)元年)ごろに宮城県塩竃市あたりで生まれたらしい。文化(ぶんか)11年(1814年)ごろ故郷で亡くなっています。寛政(かんせい)5年(1793年)に陸奧国石巻から若宮丸で江戸に向かう途中で遭難したとのこと。ロシア船に救われ、ペテルブルグでロシア皇帝に謁見しているそうです。文化(ぶんか)元年(1804年)に遣日使節レザノフとともに帰国したらしい。彼のもたらした情報をもとに、大槻玄沢(げんたく)という蘭学者は「環海異聞(かんかいいぶん)」という漂流記を記したらしい。
■ちなみに大槻玄沢氏は「解体新書」で知られる杉田玄白(げんぱく)と前野良沢(りょうたく)の2人の師匠がいて、どちらの顔もつぶせないので玄沢と名乗ったという噂があります。どうでもいい話ですけど。
◆参考*1:3書籍「江戸文化歴史検定公式テキスト上級編【江戸博覧強記】」初版377頁、江戸文化歴史検定協会編、ISBN978-4-09-626602-1、小学館
◇*2HP「音吉 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E5%90%89
◇*3HP「次郎吉(じろきち)とは
- コトバンク#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.」
https://kotobank.jp/word/%E6%AC%A1%E9%83%8E%E5%90%89-1082908#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus
◇*4HP「小栗重吉 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E9%87%8D%E5%90%89
◇*5HP「久蔵 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E8%94%B5
◇*6HP「津太夫 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%A4%AA%E5%A4%AB

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
音吉(知多半島の美浜に記念碑)は、海嶺(三浦綾子)の小説に詳しい。

美浜町には、音吉たちの子孫もいるとか。ついでに…唐人お吉(美浜の船大工の娘さん)も美浜の出身(唐人お吉 トライアスロン大会(笑)
sadakun_d
2016/04/09 20:15
当時の船は現代の船に比べれば華奢ですから、けっこう遭難した人が多いでしょうね。
帰るのを諦めて漂着した土地で暮らした人も多いでしょうね。
ねこのひげ
2016/04/10 07:49
コメントをありがとうございます。

 愛知県のことなら知事よりも県の広報よりもdさんに聞いたほうがいいかもしれませんね。
 唐人お吉が愛知県出身だとは知りませんでした。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2016/04/10 10:01
コメントをありがとうございます。

 モリソン号の人たちは気の毒でした。目の前に故郷があるのに帰れないなんてのは残酷な話です。
 でもWikipediaによれば、音吉は上海でわりと成功したようですね。ちょっと救われた気分になります。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2016/04/10 10:05

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