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zoom RSS 344年前の今日。浄瑠璃坂で仇討ち事件発生。江戸時代最大規模だったの?

<<   作成日時 : 2016/03/02 13:22   >>

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★歴史★
問題:寛文(かんぶん)12年2月3日未明、西暦では1672年の今日3月2日の明け方。幕府の鷹匠頭、戸田七之助(しちのすけ)の浄瑠璃坂の屋敷に、武装した40数人が押し入ったようです。全員が火事装束に身を包んでいたらしい。目指す敵は、戸田邸に居候をしているはずの奥平隼人(はやと)です。
■かねて用心していた奥平一族は、返り討ちにしてくれんとばかりに応酬します。激しい戦闘が起きます。討ち入り側がやや優勢で、隼人の父親半斎を討ち取ります。隼人の弟九兵衛(きゅうべえ)も倒したらしい。でも肝心の隼人がいない。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党は、負傷者を戸板に乗せて運びながら900mほど退却していきます。そこへ奥平隼人が加勢の連中20数人とともに馬で追ってきたようです。
■討ち入りの連中はしめたとばかりに体勢をかえて隼人らに襲いかかります。父親と弟を失った隼人はいきり立って平静さを欠いていたようです。どうしたはずみなのか、溝(どぶ)に落ちてしまったらしい。動けないのでたちまち討ち入りの首謀者たちに討ち取られてしまったようです。
■決着はつきました。大将を失った連中と、大望を果たした討ち入りの連中は現場から逃げてしまい、だれも消息が掴めなくなったようです。大きな騒ぎでしたので幕府も探索を開始したようですが、手がかりがなかったらしい。2週間ほどしてから当時の大老井伊直澄(なおすみ)のもとに首謀者を含む7人が自首したようです。
■ご存知のように江戸時代では、条件さえ整えば仇討ちは犯罪とは見なされない場合があります。ただし、徒党を組んでの仇討ちは許されていなかったらしい。単なる私闘と見なされるようです。また、この時の討ち入りの連中は、戸田邸の門前で藁などを燃やし、火事だと騒いで門を開けさせたようです。放火の罪も重なり、首謀者は島流しに処されたようです。
■本日は、344年前の快挙を祝し、浄瑠璃坂の仇討ちについてのクイズです。次の説明のうち、正しい記述はどれでしょうか? (正しい記述は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]忠臣蔵ではクラノスケが討ち入りの首謀者だったが、浄瑠璃坂の仇討ちでは最初に悲劇の死を遂げたのがクラノスケだった
[ろ]本番の仇討ちの数日前には前哨戦風の戦闘が起きている
[は]忠臣蔵の参加者たちは、誰も浄瑠璃坂の仇討ちを知らなかった
[に]首謀者は後に恩赦され、水戸藩に召し抱えられた
[ほ]浄瑠璃坂の仇討ちは戦闘への参加人数に於いて江戸時代最大規模と言われている
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[ほ](?)が正しい
説明:[い]忠臣蔵ではクラノスケが討ち入りの首謀者だったが、浄瑠璃坂の仇討ちでは最初に悲劇の死を遂げたのがクラノスケだった(○)
■事件の発端となったのは、宇都宮興禅寺刃傷事件(〜こうぜんじにんじょう〜)と呼ばれる寛文(かんぶん)8年(1668年)の出来事です。前の藩主、奥平忠昌(ただまさ)の死後2週間ほど経過した法要での諍い(いさかい)だったらしい。
□登場人物の多くが奥平姓なのでちょっとややこしい。法要での喧嘩の当事者は奥平内蔵允(くらのすけ)と奥平隼人だそうです。どちらも藩主と血のつながりのある家老級の重臣らしい。内蔵允と隼人は従兄弟同士だったとも言われます。
□喧嘩の原因はどちらかの遅刻という説もあれば位牌の文字についての意見の食い違いという説もあります。おそらくは日頃から仲があまりよくなかったのでしょう。小さなことをきっかけに、感情が爆発してしまったと思われます。
□両者抜刀してチャンチャンバラバラをしたようです。奥平隼人はカスリ傷で済みました。奥平内蔵允は深手を負ったらしい。仲裁役の重臣は、2人をそれぞれの親戚宅預かりにしたそうです。再起不能を確信した内蔵允は、担ぎ込まれると、その場で「悔しい」とばかりに切腹したそうです。
□奥平藩では事を穏便に済ませるため、内蔵允は破傷風で死んだと幕府に報告したようです。幕府からは「じゃ、あとのことはそちらで勝手に処理してね」と連絡が来ます。事件から半年後に出た裁定は、喧嘩両成敗ということで隼人は改易。内蔵允の遺子の源八も改易でした。
□藩内に波紋が広がります。喧嘩両成敗なら、隼人も内蔵允同様に切腹すべきじゃないか。源八も憤慨したらしい。でも奥平藩は隼人と父親の半斎には警備の者をつけて藩から江戸へと送り出したらしい。
□ここから先は、武士ならぬ町人の身にはとても考えにくいのですが、源八を支援する少なからぬ藩士たちは、敢えて脱藩し、浪人となって源八の仇討ちに加担しようとします。収入源を失ってまで仇討ちをしようという気持ちは、どうも理解しにくいですね。参考資料*2には、その時脱藩した武士たちの一覧が掲載されていました。
[ろ]本番の仇討ちの数日前には前哨戦風の戦闘が起きている(×)
■正しくは、「本番の仇討ちの3年前には」だそうです。
□源八と加勢する一党は、手始めに隼人の実弟の1人、奥平主馬允(しゅめのすけ?)を討ち取ったようです。寛文(かんぶん)9年(1669年)の夏だったらしい。江戸にもこの話が伝わります。知り合いの旗本の屋敷に身を寄せていた奥平隼人は、より警戒を強め、警備しやすいように浄瑠璃坂の鷹匠頭の屋敷に陣取ったらしい。
□なお、浄瑠璃坂は、現在の地名でいえば新宿区市ヶ谷砂土原町(さどはらちょう)だそうです。下の地図では赤線で囲まれた領域が砂土原町です。口絵の写真では人力車が写っています。明治時代に撮影されたと思われる浄瑠璃坂らしい。
◇*HP「〒162-0842 東京都新宿区市谷砂土原町 - Google マップ」
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92162-0842+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA%E5%B8%82%E8%B0%B7%E7%A0%82%E5%9C%9F%E5%8E%9F%E7%94%BA/@35.6958787,139.7191282,14z/data=!4m2!3m1!1s0x60188c5e98f6de39:0xbe8554400d40667b?hl=ja
□討ち入りをした源八らが浄瑠璃坂の屋敷からいったん退却し、牛込の土橋というあたりまで来たとき、追っかけてきた隼人らに遭遇したらしい。牛込の土橋は現在の牛込神楽坂駅のあたりだそうです。現代人だと徒歩11分の距離らしい。
◇*HP「牛込神楽坂駅 から 浄瑠璃坂 - Google マップ」
https://www.google.co.jp/maps/dir/%E7%89%9B%E8%BE%BC%E7%A5%9E%E6%A5%BD%E5%9D%82%E9%A7%85/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA%E5%B8%82%E8%B0%B7%E7%A0%82%E5%9C%9F%E5%8E%9F%E7%94%BA%EF%BC%91%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%E2%88%92%EF%BC%91%EF%BC%96+%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83%E5%9D%82/@35.6979002,139.7312175,16z/data=!3m1!4b1!4m13!4m12!1m5!1m1!1s0x60188c59dd5bd075:0x5e9b749d0f145782!2m2!1d139.7359098!2d35.7006391!1m5!1m1!1s0x60188c5eedf2abc5:0x9f5423dfa3ed8a7d!2m2!1d139.7355836!2d35.695015?hl=j
[は]忠臣蔵の参加者たちは、誰も浄瑠璃坂の仇討ちを知らなかった(×)
■これはおそらく逆なのでしょうね。忠臣蔵の参加者たちの中で浄瑠璃坂の仇討ちを知らぬ者はいなかったのでしょう。とてもよく研究されているようです。共通点も少なくありません。たとえば未明に襲っている点。全員が火事装束に身を包んでいる点。事後に出頭している点など、いくつか見られるようです。
□後世の研究家たちも、赤穂事件の手本は浄瑠璃坂の仇討ちと見ているようです。たとえば参考資料*4の記事の題名は、「大石内蔵助が手本にした夜襲」とのこと。
[に]首謀者は後に恩赦され、水戸藩に召し抱えられた(×)
■首謀者は奥平源八です。父親内蔵允と家屋敷を失ったときは12歳。仇討ちに成功したとき、源八は16歳だったとのこと。見た目もよかったようですし、挙措動作、受け答えもたいへんしっかりしていたらしい。大老井伊直澄は潔い態度に感心したそうです。本来なら死罪だったのかもしれません。でも井伊直澄のとりなしで伊豆大島に島流しということに落ち着きます。他の面々も死罪にはされませんでした。
□流罪から6年後に千姫(天樹院)13回忌追善法要にともなう恩赦で赦免された源八は、彦根藩井伊家、つまり直澄の家に召し抱えられたらしい。他にも他家へ召し抱えられた者がいたようです。ひょっとしたら脱藩し、浪人してまで仇討ちに参加した人たちは、こうした事後の名誉や好待遇での転職を狙っていたのかな。
□浄瑠璃坂の仇討ちにおける処分が甘かったので、30年後に赤穂浪士の討ち入りが起きたとも言われます。2度目は全員が切腹です。5.15事件の処分が甘かったので2.26事件が起きたみたいな話ですね。2.26事件でも首謀者は全員が死刑に処されました。歴史は繰り返します。
[ほ]浄瑠璃坂の仇討ちは戦闘への参加人数に於いて江戸時代最大規模と言われている(△)
■討ち入りをした人数は40人余りで忠臣蔵の事件より数人少ないぐらい。でも、戸田七之助の屋敷に返り討ちを狙って詰めていた人数は50人説〜80人説まであります。最少の50人説でも、戦闘参加人員は忠臣蔵より多くなるらしい。赤穂の47人の武士が殴り込んだ吉良邸には100人ほどの手勢がいたようですが、実際に戦闘に参加したのは40人もいなかったと推定されているようです*5。
□なお、参考資料*3では、赤穂浪士の討ち入りのほうが戦闘参加人数が多いという説を唱えています。どちらがホントかは、判定が難しいようですね。
◆参考*1:HP「宇都宮興禅寺刃傷事件 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E8%88%88%E7%A6%85%E5%AF%BA%E5%88%83%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◇*2HP「浄瑠璃坂の仇討 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E
◇*3書籍「三田村鳶魚全集16元禄快挙別録」初版231〜236頁、三田村鳶魚著、中央公論社
◇*4書籍「江戸の醜聞事件帖」文庫初版235〜237頁、中江克己(かつみ)著、 ISBN978-4-05-901265-8、学研パブリッシング
◇*5HP「赤穂事件 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E8.A8.8E.E3.81.A1.E5.85.A5.E3.82.8A

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
敵討ちや切腹をしようとして武士の鑑であるとかなんとか言われて、召し抱えられることがあったようですね。
就職活動の一環としてやられたら殺された方はかなわんですね。
ねこのひげ
2016/03/06 16:06
コメントをありがとうございます。

 就活目的の敵に殺されるのはたまらないという話は笑えますね。たししかにそのとおりだと納得してしまいました。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2016/03/07 08:15

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