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zoom RSS 後鳥羽上皇の命日。承久の乱の首謀者は調子のいい人だったの?

<<   作成日時 : 2016/02/20 08:56   >>

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★歴史★
問題:本日、2月20日は、後鳥羽上皇の祥月命日だそうです。延応(えんおう)元年2月20日(1239年3月26日)に崩御しています。今年は777回目ですね。縁起がいいのか悪いのか。
■後鳥羽院(後鳥羽天皇、後鳥羽上皇)は、平安末期に生まれ、鎌倉時代の前半まで生きたようです。けっこう有名な人物です。歴史の授業および古文の授業で登場します。承久(じょうきゅう)3年(1221年)に発生した承久の乱(じょうきゅうのらん)の首謀者であるとともに、「新古今和歌集」を編むよう命じた人でもあるらしい。
■自身も和歌の名手だそうです。作品は百人一首にも収載されています。「人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく 世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は」。参考資料*5によれば、この歌の意味は、「ひとを愛しくも思い、恨めしくも思うのです。思うとおりにならなくてつまらないと、世の中を思うから、いろいろと思い悩むのですよ」というものらしい。
■意味は何とか理解できます。でも共感はしにくい。世の中が思うようにならないのはあたりまえ。後述のように、武士の世の中が始まってはいますが、後鳥羽院の時代まではわれら庶民に比べればはるかに思うようになる部分の多い立場です。こんな感想を述べられても町人としては肩をすくめるしかありません。
■さて、本日は後鳥羽院についての雑学クイズです。後鳥羽院についての説明のうち、正しいものを選んで下さい。(正しい説明は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]蹴鞠の名人で長者と呼ばれるほどの伎倆だった
[ろ]刀の鑑定、製作に長じており、自作の刀がいまに残されている
[は]天皇家をあらわす菊の御紋を採用した最初の人物と言われている
[に]祖父に取り入ったので4男坊なのに天皇になれた
[ほ]兄は壇ノ浦で亡くなった安徳天皇である
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:全部正しい
説明:[い]蹴鞠の名人で長者と呼ばれるほどの伎倆だった(○)
■蹴鞠は、集団で行なうボール・リフティングですね。Wikipediaの蹴鞠の項によれば、「一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技」とのこと。

□後鳥羽院は、同時時代の蹴鞠の名手たち、藤原泰通(やすみち)、藤原宗長(むねなが)、藤原雅経(まさつね)が連名で「此の道の長者」という認定証を奉ったらしい*3。単なるゴマスリでの行為ではなかったようです。動体視力が優れていたのかな。
□なお、Wikipediaの蹴鞠の項には歴代の名人が十数人分挙げられていますが、なぜか後鳥羽院は含まれていません(160220現在)。評価が別れているのか。単なる漏れなのか。
[ろ]刀の鑑定、製作に長じており、自作の刀がいまに残されている(○)
■そもそも鳥羽院は運動全般に能力を発揮したらしい。水練、相撲、馬術、弓道などなんでもござれだったようです。腕力も強く、琵琶湖の西岸、今津に盗賊が出現したとき、自ら舟に乗り、櫂を挙げて手下を指揮し、捕らえたそうです。強盗は「重い櫂を扇のように軽々と挙げて指揮しているのを見て、捕らわれてしまった」と述懐したとか*3。
□剣術も得意だったようです。そこから刀剣にも関心を抱いたのでしょうか。刀の鑑定にも長じていたらしい。とうとう自分で刀を作り始めたとのこと。菊御作(きくごさく)と呼ばれる伝(でん、〜と伝えられる)鳥羽院作の刀剣が現代にも残されているようです。重要文化財に指定されているらしい*4。
◇*HP「太刀 菊御作 - e国宝」(画像)
http://www.emuseum.jp/detail/101117/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=6&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=25&num=3
[は]天皇家をあらわす菊の御紋を採用した最初の人物と言われている(○)
■鳥羽院は、自作の刀に菊の模様を彫り込んでいたらしい。菊御作の呼び名もそこに由来するとのこと。
□鳥羽院はもともと菊が大好きだったようです。Wikipediaの菊花紋章の項によれば、「鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が皇室の紋として定着した」とのこと*7。
□余談です。菊は奈良時代に中国大陸から伝来したらしい。8世紀後半まで編まれていたという「万葉集」には菊の歌がいっさい含まれていないそうです。延喜(えんぎ)5年(905年)に奏上されたという「古今和歌集」には、すでに菊が詠まれているとのこと。百人一首にも収載されている凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花」がありますね。凡河内躬恒は「古今和歌集」の編集委員だったそうです。
[に]祖父に取り入ったので4男坊なのに天皇になれた(○)
[ほ]兄は壇ノ浦で亡くなった安徳天皇である(○)
■82代目の天皇になった後鳥羽院のお父さんは80代目の高倉天皇だそうです。後白河天皇の息子さんです。高倉天皇の長男が壇ノ浦で二位の尼に抱かれて入水したという81代目安徳天皇とのこと。無理心中のときはわずか満6歳だったそうです。
□後鳥羽院は4男坊だったらしい。上に2人男の子がいたようです。次男坊は守貞親王(もりさだしんのう)、3男坊は惟明親王(これあきしんのう)という名前だったらしい。
▼後鳥羽天皇の家族・親戚たち
画像
□平家は都落ちし、木曾義仲が京都を占領する中で、新帝擁立、81代安徳帝の後釜が決定されることになったそうです。2男坊は平家が西国に連れ去っています。5歳の3男坊と4歳の4男坊尊成親王(たかひらしんのう=後の後鳥羽天皇)は、祖父の77代目天皇だった後白河上皇に品定めされたらしい。3男坊はむずがって泣いてばかりいたようです。4男坊は後白河上皇の膝におとなしく抱かれたらしい。これこそわがまことの孫だといって、後白河は落涙し、82代目は尊成親王に決定した…と「平家物語」には書いてあるようです*8。
□愛嬌の良さで天皇の座を掴んだとも言えますね。ただし、3男坊は母親があまり高位の人物ではなかったという説もあります。はじめっから4男坊が本命だったのかもしれません。
□子供時代から調子がよかったかどうかはわかりませんが、承久の乱の後始末では後鳥羽院は見苦しい姿を見せたらしい。上皇みずからが北条政子の弟である北条義時追討の院宣を出しておきながら、敗色濃厚になると、敗走してきた味方を御所から追い返してしまいます。「大臆病の君に騙られたわ」と憤慨する者たちは御所の門を叩いて悔しがったとのこと*9。
□さらに後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、「この度の乱は謀臣の企てであった」として義時追討の院宣を取り消し、味方の有力な武将である藤原秀康(ひでやす)、三浦胤義(たねよし)らの逮捕を命じる院宣を下したそうです*9。つい昨日まで自分の手下だった者たちを売ったらしい。事実なら人としていちばん恥ずべき行為です。スポーツ万能で愛嬌はよかったかもしれませんが、人間としては最低の部類なのかな。
□承久の乱までは、天皇家は多くの荘園を持ち、多大な収入があったようです。乱後は多くが鎌倉方についた武士たちへの恩賞として没収されちゃったらしい。以後、96代後醍醐天皇まで、天皇家は権力も財力も制限されてしまうようです。
□後鳥羽院は隠岐に流され、そこで延応(えんおう)元年(1239年)に崩御します。18年も流されっぱなしだったわけですね。鎌倉幕府の怨みは深かったでしょう。でも自業自得のような気がするな。
◆参考*1:HP「後鳥羽天皇 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87
◇*2書籍「日本奇談逸話伝説大事典」初版371〜372頁、志 村 有 弘(ありひろ)・松 本 寧 至(やすし)編、ISBN4-585-06002-2、勉誠社
◇*3書籍「世界人物逸話大事典」初版392頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04- 031900 -1、角川書店
◇*4HP「太刀 菊御作 - e国宝」
http://www.emuseum.jp/detail/101117/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=6&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=25&num=3
◇*5HP「後鳥羽院(ごとばいん)|子供と愉しむ百人一首:百人一首の意味を知ろう」
http://www.caruta.net/gotobain.html
◇*6HP「凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)|子供と愉しむ百人一首:百人一首の意味を知ろう」
http://www.caruta.net/mitsune.html
◇*7HP「菊花紋章 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%B4%8B%E7%AB%A0
◇*8書籍「平家物語(八)」文庫初版36〜43頁、杉本圭三郎(けいざぶろう)訳注、ISBN4-06-158354-9、講談社
◇*9HP「承久の乱 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1

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コメント(8件)

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全部というのは凄いですね。ある意味、万能選手とも言えますね。
それでも、まだまだというのは欲が深い!
ねこのひげ
2016/02/21 10:12
コメントをありがとうございます。

 昔の天皇家にはずいぶんメチャクチャな人間がいたようですね。
 お話として聞く分には面白い。でも、直接迷惑を被った人たちは、たまったもんじゃないでしょう。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2016/02/21 21:42
後鳥羽上皇(隠岐島)
順徳上皇(佐渡島)。

討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流(後に阿波国へ移される)

順徳天皇(上皇)は佐渡にお墓参りしました。この天皇は"いつかは京都に戻してね、ああ、京の都が恋しい"

夢は叶わず!
sadakun_d
2016/02/22 07:31
コメントをありがとうございます。

 順徳院は後鳥羽院以上に積極的に倒幕を唱えていたと書かれたサイトもありますね。京の都は恋しかったでしょうけれど、まぁこちらも自業自得な雰囲気がありますが。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2016/02/22 20:07
順徳天皇の警護するのは"京都の本間一族"(だろう?)

佐渡 新潟市…よく本間くんに逢いました。順徳天皇の…ですね?(本間一族の子孫
sadakun_d
2016/03/02 22:40
コメントをありがとうございます。

 佐渡に渡った本間氏というのは初めて知りました。おかげさまで、ひとつ賢くなったようです。
m(_ _)m
sadakun_d様<素町人
2016/03/03 20:16
本間一族に感化だろうか「丹下左膳」(林不忘(はやし ふぼう)・・・佐渡島出身。本間の武芸に感化?どうでしょ
sadakun_d
2016/09/22 15:44
コメントをありがとうございます。

 林不忘氏も佐渡の出身だったわけですか。知りませんでした。

 フィリピンを攻略し、戦後は戦犯として裁かれちゃった本間雅晴中将も佐渡出身だったとか。末裔なのかな。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2016/09/22 21:45

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