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zoom RSS 弟か息子か。後継者選定の方式が変わったのはいつごろなの?

<<   作成日時 : 2015/07/04 08:55   >>

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★歴史★
問題:古くは天智天皇の時代にもありました。弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)。天智天皇の崩御後、壬申の乱が起きて大海人皇子が勝ちました。天武天皇です。
 …天智天皇―大友皇子(息子)
    |
   大海人皇子(弟、天武天皇)
■室町時代の初期にもありました。室町幕府の創設者足利尊氏の弟の直義(ただよし)と息子の義詮(よしあきら)。2代目将軍は義詮が就任しました。
 …足利尊氏―足利義詮(息子、2代目将軍)
    |  
   足利直義(弟)
■室町時代の中期にもありました。8代目将軍の足利義政の弟の義視(よしみ)と息子の義尚(よしひさ)です。将軍職は義尚が継いだようです。
 …足利義政―足利義尚(息子、9代目将軍)
    |
   足利義視(弟)
■後継者は弟なのか息子なのか。この種の家督相続は、揉め事の原因になるようですね。参考資料*1の書籍「若い人に語る奈良時代の歴史」によれば、昔の日本では弟が継いでいたらしい。それがある時代から中国風に息子が継ぐように変わったそうです。では、いつごろそんな変化が起きたのでしょうか?
[い]飛鳥時代
[ろ]奈良時代
[は]平安時代
[に]鎌倉時代
[ほ]南北朝時代
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]飛鳥時代か[ろ]奈良時代
説明:参考資料*1によれば、「家督相続として長男が家を受け継ぐというあり方は、おおよそ八世紀以後に一般的になったと言って良いと考えます」とのこと。
■弟が継ぐというのはどんな風に行なわれるのでしょうか。図をごらんください。甲に兄弟がなければ長子の乙が家督を引き継ぎます。乙が亡くなったら弟の丙。丙が他界したら弟の丁が引き継ぐ。そして丁が没したときには乙の長子である戊が継ぐ。そんな形で相続していくらしい。
■これに対して中国から渡ってきた風習なのか制度なのか、息子が相続するやりかたもあります。図でいえば甲が死んだら乙、乙が死んだら戊、戊が死んだら辛。単純明快です。
画像

■参考資料*1の記述どおり、飛鳥時代末期か奈良時代初期ぐらいには長子相続が一般的になっていたとすれば、その後の足利家のような叔父さんと甥っ子の揉め事は起きなくても済むはずです。でも、どこのご家庭でも内部の事情は複雑なのでしょうね。息子が阿呆かもしれません。賢いけど周囲の人望がないかもしれません。また、稀には親に疎(うと)まれている息子というのもありそうです。もう子供はできないと諦めて弟に家督を譲ると約束したら、なぜかできちゃって約束を反故にするというのも聞きますね*2。いろいろあって、揉め事は発生する。単純にはいかないようです。
■なお、江戸時代には完全に息子優先になっていたらしい。家督相続で揉めて弱体化した室町幕府の失敗に学んだのかな。長男を特別に優遇する社会であり、次男以下は補欠みたいなものらしい。養子に行くか、部屋住みのまま経済的にも不遇な暮らしを送るか。なかなか悲しい人生が待っていたようです。桜田門外の変で散った大老井伊直弼(なおすけ)のように、14男なのに藩主になれた(!)なんて事例は、よほどの幸運があったのでしょう*3。
◆参考*1:書籍「若い人に語る奈良時代の歴史」初版8〜10頁、寺崎保広(やすひろ)著、ISBN978-4-642-08096-5、吉川弘文館
◇*2HP「室町幕府で2度目の将軍職をつとめた人って誰だっけ? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/201007/article_26.html
◇*3HP「チャカポンというあだ名をつけられた有名人は誰なの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/201404/article_20.html

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内 容 ニックネーム/日時
徳川光圀も三男で、長男が夭折して次男が継ぐところを三男である光圀が継いだことになったため、光圀は気にして次男の息子に後を継がせましたね。
家がでかいと色々大変なようです。
ねこのひげ
2015/07/05 04:05
コメントをありがとうございます。

 いつもカッカッカッと笑っている印象のある黄門様ですが、人生の序盤にはいろいろとご苦労があったようですね。若いころはグレていたという話も聞きます。
 人生の後半にも家来を刺し殺さねばならなかったことがあったとか。殿様も楽じゃないのかな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2015/07/05 11:37
家督相続人…それが天皇家となると…天皇→皇太子…?

長女愛子
次男(叔父)秋篠宮→悠仁

(皇太子)邪魔してる
sadakun_d
2016/02/12 17:58
コメントをありがとうございます。

 後継者問題は、権力や資産や名誉が大きいほどたいへんなんでしょうね。
 幸いなことに素町人家は権力も資産も名誉もありません。で、なんの揉め事も起きそうにありません。
 10億円のためには人を殺すこともあるでしょうけれど、10万円じゃ馬鹿馬鹿しくて犯罪を犯す気にもなれませんよね。子孫に美田を残さない素町人は誉められていいのかな。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2016/02/14 10:18
松平清康(家康の祖父)が守山崩れで他界→松平宗家の家督は長男広忠(家康の父親)が継ぐ(年齢は10歳)

後見人は松平信孝(清康の弟) この信孝が徐々に権力をもち、好き放題すると、成長期の広忠と対立。

信孝は織田(尾張)の権力を傘に、山崎城(安城市山崎町)を建築して岡崎城の広忠に対抗手段

叔父vs甥の対立
sadakun_d
2016/03/18 22:56
コメントをありがとうございます。

 後継者をめぐる弟と息子の確執は多いようですね。徳川幕府が嫡子のみを後継者と決めたのは後継者争いを減らすにはいい方法だったのかもしれません。
 弟でありながら家を継ぐ場合には、兄の家に養子として入り、形式的には嫡子であるとした事例もよく聞きます。井伊直弼(なおすけ)などもたしかそんな形で彦根藩を嗣いだようです。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2016/03/19 15:43

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