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zoom RSS 男運の悪い貴族の娘。婚活は何年に及んだの?

<<   作成日時 : 2015/07/15 08:56   >>

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★歴史★
問題:5代将軍徳川綱吉の最晩年、徳川吉宗の若いころの話です。京都のある公家さんの娘が綱吉の養女となりました。宝永(ほうえい)5年(1708年)7月に会津藩主松平正容(まさかた)の嫡子久千代(ひさちよ、諱(いみな、生前の実名)は正邦(まさくに?))と婚約します。でもその年の12月、久千代は他界してしまったそうです。ご愁傷様。
■宝永(ほうえい)7年(1710年)には有栖川宮正仁(ただひと)親王と婚約します。結納も済ませ、もうじき輿入れという享保(きょうほう)元年(1716年)、正仁親王が亡くなってしまいます。重ねてご愁傷様。
■不運なんですね。それでもこの女性はしばらくして薩摩藩の当主継豊(つぐとよ)と婚約し、三度目の正直でちゃんと輿入れできたようです。では、このとき、この女性が最初に婚約してから何年が経過していたのでしょうか? 次の中からいちばん近い数字を選んで下さい。
[い]9年
[ろ]12年
[は]15年
[に]18年
[ほ]21年
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]21年
説明:なんだか気が遠くなるような婚活期間ではあります。ただし、平成の時代とは異なり、昔は若いといいますか、幼いころから婚約しちゃったりするわけですね。だから、メチャメチャに年をとってから結婚したというわけではありません。
■彼女の名前は竹姫。浄岸院(じょうがんいん)とも呼ばれます。権大納言清閑寺熈定(せいかんじ ひろさだ)という公卿の娘さんだそうです。
■清閑寺熈定氏は、とても有名な事件の関係者だそうです。浅野長矩(ながのり)が吉良義央(きら よしひさ、上野介)に意地悪を受けたとき、朝廷から来ていた使者というのが清閑寺熈定氏らしい。清閑寺熈定氏を接待する役を浅野長矩がまかされ、指導役の吉良義央にパワハラを受けたといわれます。元禄14年3月14日(1701年4月21日)にプッツンと切れ、江戸城内松の廊下で抜刀するわけですね。清閑寺熈定は、忠臣蔵のお話の発端をつくった人物らしい。
■竹姫は事件の4年後、宝永(ほうえい)2年2月19日(1705年3月14日)の生まれだそうです。最初に婚約したのが宝永(ほうえい)5年(1708年)7月です。まだ3歳半にも達していないころですね。幼稚園でいう年少組なのかな。
■現在から見ると早すぎと思われますが、当時はそんなに珍しい話ではなかったのかも。11代将軍家斉の長女淑姫(ひでひめ)は、わずか2歳で尾張藩主徳川宗睦(むねむつ)の嫡孫五郎太との結婚が定められたらしい。5歳の年の寛政(かんせい)5年(1793年)には結納もかわしましたが、翌年の秋に五郎太君が急死。お話は自然消滅だそうです。なんだか竹姫に似ていますね。
■竹姫の2回目の婚約は宝永(ほうえい)7年(1710年)です。5歳ごろだったのでしょうか。年中組なのか年長組なのか。いよいよ輿入れというのは享保(きょうほう)元年(1716年)ですから11歳ぐらいだったようです。
■島津継豊と結婚したのは享保(きょうほう)14年(1729年)です。おそらく23〜24歳ぐらいですね。現在としては少し若いほうですが、当時としては年増だったようです。それなりに条件も悪かった。
■継豊はたまたま正室との間に長男益之助(ますのすけ)が生まれたすぐ後だったようです。御産の際に正室が亡くなったのでしょうか。竹姫は継室(後妻)として輿入れしたらしい。このとき、「竹姫との間に今後男子がうまれても世子(せし、後継ぎ)としない」なんて凄い条件を薩摩藩側は突きつけたらしい。幕府側はそれを呑んだようです。子供は設けられませんでしたが、竹姫は益之助、のちの6代目藩主宗信(むねのぶ)や義理の孫の養育に力を注いだそうです。孫は8代目藩主重豪(しげひで)とのこと。薩摩藩の赤字をふくれあがらせた人物ともいわれます*4。
■竹姫は安永(あんえい)元年12月5日(1772年12月28日)に亡くなったらしい。満67歳でしょうか。波乱に富んだ前半生と落ち着いた後半生を生きた女性でした。
■余談ですが、おそらく竹姫は美人だったと思われます。吉宗が将軍になってから、竹姫を継室にと望んだらしい。5代綱吉の養女なので、吉宗にとっては大叔母にあたる関係だったそうです。このことをたてに、天英院熈子(てんえいいん ひろこ)が大反対したため、沙汰止みになったらしい。天英院熈子は、6代家宣(いえのぶ)の正室だったそうです。竹姫と大奥の中で対立していたとのこと。大奥の中もいろいろ大変そうですね。
◆参考*1:HP「浄岸院 - Wikipedia」(竹姫)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2
◇*2HP「清閑寺熈定 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%96%91%E5%AF%BA%E7%86%88%E5%AE%9A
◇*3HP「島津継豊 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%99%E8%B1%8A
◇*4HP「奇想天外な財政再建策。薩摩藩を救った男の評判は最低なの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200903/article_40.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
生まれてすぐに婚約なんてこともあったらしいですからね。
18ぐらいまでが結婚適齢期で20歳過ぎるといかず後家とか言われた時代ですからね。
簡単に死んじゃう時代でもありましたか、67歳まで生きたというのは立派ですね。
ねこのひげ
2015/07/20 07:23
コメントをありがとうございます。

 子供の死亡率が高い時代です。婚約したのに片方が亡くなってしまい、解消という事例は少なくなかったのでしょうね。
 それにしても物心つかぬうちから道が決まっているというのは、どんな気分なのかな。運命と諦めて受け入れるのでしょうかね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2015/07/20 09:09

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