町人思案橋・クイズ集

アクセスカウンタ

zoom RSS 彰義隊の上野戦争。庶民が迷惑を蒙(こうむ)ったのはどんなこと?

<<   作成日時 : 2015/07/11 08:51   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 2

画像
★歴史★
問題:慶応4年5月15日(1868年7月4日)。江戸の上野において彰義隊と新政府軍のあいだで戦闘がありました。彰義隊の親分は天野八郎(はちろう)。幕臣です。新政府軍の指揮は大村益次郎(ますじろう)。村田蔵六(ぞうろく)とも呼ばれます。頭の大きなオジサンです*1。
■新政府軍はアームストロング砲を轟かせ、彰義隊の本陣にどんどん砲弾を撃ち込んだらしい。烏合の衆だった彰義隊はほどなく壊滅状態に陥ります。そもそもの戦力も新政府軍が1万人に対して彰義隊は4000人。開戦時には実際には1000人しかいなかったとも言われます。彰義隊は266人の死者を出し、根岸方面に敗走したようです。新政府軍は死傷者あわせて100人ほどだったらしい。
■上野戦争は兵隊同士の戦いでした。町人はまるで無関係です。上野戦争のあとで、参加していた薩摩の桐野利秋(としあき、通称人斬り半次郎)は、銭湯に行っています。その帰り道で刺客に襲われ、指を2本失いながらなんとか撃退したらしい。戦闘があったのに銭湯は普段通りの営業。町人達は武士や兵隊たちのいがみあいをよそに、いつもとおなじ暮らしをしていたらしい。火事さえ出さなければいい。勝手にやってくれということかな。
■でも結果としては、上野の山のあちこちが破壊されたため、町人達の暮らしにも支障が出たらしい。ではその最大の被害はどんなことだったのでしょうか? 次の中から選んで下さい。
[い]寛永寺の再建に金を拠出させられた
[ろ]寛永寺から類焼して周囲がだいぶ焼けた
[は]瓦礫や死骸の片付けに徴用された
[に]夏だったので死骸が早く腐敗し、臭いがすごかった
[ほ] 鐘が撞(つ)けなくなってしまい、時刻がわかりにくくなった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]鐘が撞(つ)けなくなってしまい、時刻がわかりにくくなった
説明:「花の雲 鐘は上野か 浅草か」。松尾芭蕉の句だそうです。200年ものあいだ、周辺の人々は鐘の音を頼りに生活してきたようです。にわかに無くなってしまったため、起きるにも寝るにも狂いが生じたらしい。上野の寛永寺はほとんどの建物が壊滅状態だったようです。とても鐘撞きを優先できる状態ではなかったとのこと。口絵の写真はWikipediaの寛永寺の項に掲載されていた建物です。
■時鐘堂(じしょうどう、時の鐘の建物)の責任者だった柏木氏という人が、数代続いてきた鐘の音が自分の代で消えるのはしのびないと、新政府に願い出て鐘をつく許可はもらったようです。でも再興しようにも江戸には大名がほとんど残っていません。スポンサーがいないわけですね。
■腹を決めた柏木氏は、自腹で鐘撞き男を雇い入れ、明治2年2月26日(1869年4月7日)の正午の鐘からつき始めたそうです。「八町四方の町民は暗夜に燈火を得たごとく喜んだ」とのこと*4。
■明治5年の秋から一昼夜12時(とき)の制度が24時間制に改正されます。鐘撞きの回数も増えました。費用も増えます。政府の認可を得て寄付を募り、不足額を自腹で補ったらしい。明治も半ばを過ぎると物価も高くなってきたので、寄付金の増額を町民に要請しました。ところが長年鐘の世話になってきた恩を忘れ、もう自分のうちには時計があるから鐘はうるさいだけとか、音が小さくて聞こえぬなどと口実をもうけては寄付を断るようになってきたそうです。いつの世も人は勝手ですね。
■明治35年(1902年)1月分の寄付総額は40円ほどらしい。明治33年(1900年)の教員の初任給が11円だそうです。24時間です。鐘撞き男は3〜4人ぐらい雇っていたようです。40円ではぎりぎりだったのでしょうね。
■ちなみに上野の鐘は高さ2m70cm余り、厚みは24cmほど。表面には東叡山大銅鐘、裏表には天明七丁未年八月という銘があったようです。天明(てんめい)7年(1787年)に鋳造されたのかな。なかなか歴史のある鐘のようです。平成のいまでも同じものがあるのかな。戦時中の金属強制収用にやられちゃったのかな。
▼現在の寛永寺の鐘
画像

◆参考*1:HP「「ひょうろくだま」という不思議な言葉の語源となった動物ってなんなの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/201103/article_20.html
◇*2HP「上野戦争 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%88%A6%E4%BA%89
◇*3HP「桐野利秋の命日。通称「人斬り半次郎」は、10人以上の幕臣を斬り捨てたの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200809/article_37.html
◇*4書籍「明治百話」初版160〜164頁、篠田鑛造(こうぞう)著、角川書店

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
江戸では火事が起きるのを抑えるために特別の許可がないかぎり内湯が禁止されていましたからね。
江戸庶民は一日の終わりにかならず銭湯に言ったそうで、やらなかったら大騒ぎでしょうね。銭湯側もやらざるを得なかったのでしょうね。
その銭湯もいまや消えかかっていますけどね。
ねこのひげ
2015/07/12 07:16
コメントをありがとうございます。

 近所の銭湯もここ十年ばかりのうちに2軒が廃業しました。自分自身は20歳前後のころから何十年も行ったことがないのですが、なんとなく淋しい気になります。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2015/07/12 21:27

コメントする help

ニックネーム
本 文
彰義隊の上野戦争。庶民が迷惑を蒙(こうむ)ったのはどんなこと? 町人思案橋・クイズ集/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる