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zoom RSS 江戸時代前期。徳川家康の甥っ子はどんなことをして世間を驚かせたの?

<<   作成日時 : 2015/05/13 09:12   >>

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★歴史★
問題:徳川家康の母親は於大の方(おだいのかた)と呼ばれる女性だそうです。松平広忠(ひろただ)の正室です。広忠と於大の方の長男が幼名竹千代、のちの徳川家康だそうです。
◇*HP「於大の方 石像 - Google 検索」(画像)
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%96%BC%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%80%80%E7%9F%B3%E5%83%8F&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP523JP523&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=oXNSVbOaJ8-LuAS7l4GYAw&ved=0CAcQ_AUoAQ&biw=1536&bih=730&dpr=1.25
■徳川家康の異父弟に松平定勝(さだかつ)という大名がいるらしい。その息子さんが本日の主役、松平定政(さだまさ)だそうです。徳川家康と松平定政は伯父と甥の関係にあたるらしい。
■異父弟です。定政の父である松平定勝は広忠の子ではありません。於大の方は家康出生後に広忠から離縁されています。広忠は今川氏に息子竹千代を人質に出すなど、今川寄りの政策をとっていました。でも、於大の方の実家は織田寄りの政策をとりはじめたらしい。広忠は、今川のご機嫌を損ねてはと思ったのでしょうか。於大の方を離縁したとのこと*5。政略結婚もあれば政略離婚もあるわけですね。
■バツイチの於大の方は久松俊勝(としかつ)という武将と再婚しています。織田寄りの実家と親しい人物だったようです。於大の方は俊勝とのあいだに3男3女をもうけたとのこと。その3男坊が松平定勝クンだったようです。永禄(えいろく)3年(1560年)の1月に生まれたらしい。この年の和暦5月19日(西暦6月12日)。五月雨の桶狭間において、定勝のお父さんたちが親しかった織田軍が今川軍を破りました。
■なお、核DNAは父方母方両方から受け継ぐそうですが、ミトコンドリアDNAは母方のみから受け継ぐそうです。異父弟ではありますが、家康と定勝のミトコンドリアDNAは完全に一致しているはずですね。
■定勝の息子さん、松平定政は、慶長(けいちょう)15年(1610年)の生まれだそうです。6男坊らしい。定勝クンが50歳を越えてからもうけたようです。ちなみにNHKのアナウンサーだった松平定知(さだとも)氏は、松平定勝の「分家旗本の子孫」だそうです。「その時、歴史は動いた」などの司会をしていました。懐かしい。
■それはともかく、江戸時代が始まって約半世紀。3代将軍家光から4代将軍家綱にバトンタッチされた直後に、小さな藩の親分だった松平定政はちょっと奇妙な行動を起こし、世間を驚かせました。それは次のどのような行動でしょうか?
[い]南蛮貿易の船に乗り、マカオに密出国してしまった
[ろ]出家して江戸の町を托鉢して歩いた
[は]江戸の町に100箇所を越える小さな稲荷の社を設けた
[に]当時は河原者と蔑まれていた役者に弟子入りした
[ほ]由井正雪の仲間になり、反乱を起こそうと企んで捕まった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]出家して江戸の町を托鉢して歩いた
説明:出家するまで、松平定政は三河国刈谷藩2万石の藩主だったそうです。
■慶安(けいあん)4年4月20日(1651年6月8日)。3代将軍徳川家光が崩御したそうです。老中の堀田正盛(まさもり)、阿部重次(しけつぐ)らが殉死します。このとき、知恵伊豆こと松平信綱(のぶつな)は殉死せず、世間からだいぶ誹(そし)られたようです*3。
■定政は慶安4年7月9日(1651年8月24日)の夜、長男をともなって上野寛永寺で剃髪し、不白(ふはく)と号したそうです。2人の幼子がいたそうですが、親戚に養育を頼んだらしい。妻は実家に帰したとのこと。翌7月10日(西暦8月25日)から定政は江戸市中を托鉢して歩いたらしい。
◇*HP「托鉢 - Google 検索」(画像)
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%89%98%E9%89%A2&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP523JP523&biw=1280&bih=632&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=85NSVZz3M9GdugSzrIDYCg&sqi=2&ved=0CAYQ_AUoAQ
■托鉢に出る数日前に、松平定政は儒学者林羅山(らざん)や作事奉行の牧野成常(なりつね)ら親しい人に次のように述べたらしい。「わたしは命を捨てて前代(家光)の御恩に報いたいと思ったが、心ならずも機を逸して叶わなかった。幼君(4代将軍家綱11歳) に仕え、力を尽くすつもりだが、いまの執政たちが将軍を補佐するのを見ていると、世が乱れる兆候があると思う」*4。
■そのうえで、老中の井伊直孝(なおたか)、阿部忠秋(ただあき)に、自分の意見書を届けてほしいと依頼したらしい。受け取った井伊直孝は他の老中とともに意見書を読みます。そこにはおおむね次のようなことが記されていたそうです。「旗本が窮乏している。だが幕府は上層部の権力強化に力を入れ、旗本救済には目もくれない。…私は2万石の禄を受けている。これで4000人の旗本に5石ずつ分け与えれば救済にもなろう。2万石を公儀に返上する」。
■ちなみに体積の単位1石=10斗=100升=1000合だそうです。米1合は1人1食あたりの消費量と言われます。1石は1人1年あたりの消費量に相当するらしい。5石あれば5人分の主食がまかなえるのかな。
■定政が主張するように、身分を問わず、下級の武士や浪人は困窮しきっていたようです。いちばんの問題は浪人が増えたことです。この当時、全国で20万人以上の浪人がいたという推定もあるようです*4。原因になったのは関ヶ原の戦い、大坂の陣、その後の大名の改易による失業武士の発生だったようです。
■墨染めの衣を着て物乞いをして歩く大名、それも権現(ごんげん)さんこと家康の甥っ子というのは、なかなか刺激的です。江戸っ子たちも驚いたらしい。喝采する者もでてきます。反骨大名と呼ばれたらしい。
■そうこうしているうちに幕府の腹は決まります。7月18日(西暦9月2日)に、乱心の所行という断が下され、刈谷藩は没収、定政は兄の松山藩主松平定行(さだゆき)に預けられることになりました。
■その直後に慶安の変が表沙汰になります。由井正雪(しょうせつ)や丸橋忠弥(ちゅうや)らが浪人を集めて幕府転覆を謀った事件です。江戸に火を放ち、混乱に乗じて幕府の重臣たちを討つ計画だったらしい。さらに京都や大坂でも決起する予定だったとのこと。7月23日(西暦9月7日)に丸橋忠弥が召し捕られたのを皮切りに、首謀者はことごとく捕縛されたり、自決を余儀なくされました。
■この翌年、慶安5年9月13日(1652年10月15日)に浪人別木庄左衛門(べっき しょうざえもん)らによる承応の変が露見します。慶安の変に似て浪人たちが徒党を組み、江戸市中に放火し、騒ぎに乗じて幕閣暗殺を企(たくら)んだらしい。未遂に終わりましたが幕府もようやく危機感を持ちます。大名の末期養子を認め、改易を減らします。浪人たちの雇用対策にも目を向けはじめたようです。
◆参考*1:HP「松平定政 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%94%BF
◇*2HP「松平定勝 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E5%8B%9D
◇*3HP「殉死しなかったからと揶揄(やゆ)された武士は誰なの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200906/article_36.html
◇*4書籍「江戸の醜聞事件帖」文庫初版199〜202頁、中江克己(かつみ)著、ISBN978-4-05-901265-8、学研パブリッシング
◇*5HP「於大の方 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BC%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%96%B9
◇*6HP「慶安の変 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%AE%89%E3%81%AE%E5%A4%89
◇*7HP「承応の変 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%BF%9C%E3%81%AE%E5%A4%89

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
いずれ幕府に対する謀反が起きると思っていた松平定信さんの方がある意味正常だったと言えますね。
とかく上の連中は下々の事はわからんようで・・・
ねこのひげ
2015/05/17 10:15
コメントをありがとうございます。

 落語の枕で語られる話です。「カタカナの トの字の上下に 棒がある」。上という字はカタカナのトの字の下に棒があります。棒が邪魔になって上の人は下のことはわからない。逆に下という字はトの字の上に棒があります。これまた棒が邪魔になり、下の者は上のことがわからない。
 世の中はなんでも中がいい。口という字に縦棒が通っています。上下に口がきけるのが中ぐらいの人らしい。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2015/05/17 21:56
松平広忠(父)は岡崎の広忠寺に葬られますが、お子さんがたくさんあった(家康の異母兄弟姉妹)〜13人ぐらいからお墓が、ぞろぞろ(笑)

於大(母)は阿久比(あぐい)にお墓。女性が不幸せにならぬよう〜と、お墓に看板。

「徳川家康26巻」(山岡荘八)〜悲劇的に於大がありました。(ああ〜刈谷藩主は罪だなあー

sadakun_d
2015/05/20 17:12
コメントをありがとうございます。

 現代に置き換えると、3.11の被災者支援がまだまだ足りないので会社を解散して資産を寄付し、自分はボランティアで現地に駆けつけるようなものでしょうか。
 志はとても立派です。でも、そのことで負の影響を受ける人がたくさん出ます。もう少し考えて欲しいですよね。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2015/05/21 11:28

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