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zoom RSS 鴨長明が「方丈記」を書き上げた日。神官なのに頭を丸めて出家していたの?

<<   作成日時 : 2015/04/22 09:54   >>

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★歴史★
問題:Wikipediaの4月22日の項には「1212年(建暦2年3月30日(ママ)) - 鴨長明が『方丈記』を書き上げる」とあります(150422現在)。なぜ細かい日付までわかったのでしょうか。
■「方丈記」のいちばん最後に、次のような文があるそうです。「時に、建暦(けんりゃく)の二年、弥生の晦日(つごもり)ごろ、桑門(そうもん、出家して修行する人)の蓮胤(れんいん、作者自身)、外山(とやま)の庵(いおり)にして、これを記す」。「外山」は地名ではないらしい。人里に近い山であり、「奥山」とか「深山(みやま)」の反対語だそうです。
■そんなわけで、春のまっただなかに鴨長明氏は「方丈記」を書き上げたらしい。いまや「方丈記」は「徒然草」、「枕草子」と並んで日本三大随筆の1つとして人気を集めていますね。古文の授業ではかなりの確率でその一部を読まされることになります。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。冒頭の一節はとくに有名ですね。
■本日は、めでたい記念日かもしれないので、鴨長明氏および方丈記についての雑学クイズといたします。次の記述のうち、正しい説明はどれでしょうか? (正しい記述は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]父親の死後、自殺を考えたことがある
[ろ]もともと神官だったのになぜか出家して頭を丸めた
[は]皇族の前で禁忌の言葉を歌に含めてしまったことがある
[に]「新古今和歌集」のために12首を提出したが、1つも入選しなかった
[ほ]「方丈記」は和歌を除くと鴨長明の唯一の著作物である
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[ろ]、[は]が正しい
説明:[い]父親の死後、自殺を考えたことがある(○)
■父親は下鴨神社の正禰宜(しょうねぎ?)という役職だったらしい。当時の神職の位階はわかりませんけど、けっこう羽振りがよかったようです。ところが鴨長明が10代の後半に父親が亡くなり、彼は天涯孤独になってしまったらしい。
□後ろ盾を失ってかなり絶望したようです。こんな歌を詠んでいるとのこと。「住みわびぬ いざさは越えむ 死出の山 さてだに親の 跡を踏むべく」。「生きるのが辛い。もう親の跡を追って死んでしまおうかな」という意味らしい。
□父の部下であった鴨輔光(すけみつ?)がこれを見て、「住みわびて いそぎな越えそ 死出の山 この世に親の 跡をこそ踏め」と忠告したとのこと。「死ぬよりも生きてこの世で親みたいに栄達しろよ」という意味でしょうか。残念ながら、親の跡を踏んで神官としていい目を見ることはできなかったようですが。
[ろ]もともと神官だったのになぜか出家して頭を丸めた(○)
■[い]でもちょっと触れたように、鴨長明は神官業界に身を置いていましたが、思うような出世はできなかったらしい。長明は下鴨の河合社(ただすのやしろ)の禰宜職を切望していたそうです。元久(げんきゅう)元年(1204年)、その職に欠員が生じます。好機到来、後鳥羽院もそれを認めましたが、同族の者との競合に敗れてしまいます。後鳥羽院は同情し、別の小社を官社に昇格させて長明の地位を用意しました。でも長明はそれを固辞し、行方をくらましてしまったとのこと。50歳になる直前の出来事だったらしい。
□建暦(けんりゃく)元年(1211年)には、公家の飛鳥井雅経(あすかい まさつね)の推挙により、源実朝の和歌の師として鎌倉に赴いたらしい。でも結局就職はかなわなかったようです。
□俗世での成功に絶望したのでしょうか。やがて出家して蓮胤と名乗ったそうです。前述のとおり、建暦(けんりゃく)2年(1212年)、「方丈記」を書き終えたころは、蓮胤でした。57歳ぐらいだったようです。
[は]皇族の前で禁忌の言葉を歌に含めてしまったことがある(○)
■若いころの話らしい。初めて皇室の歌の会に招かれたときです。次のような歌を準備していったらしい。「堰きかぬる 涙の河の 瀬を早み くづれにけりな 人目つつみは」。勝手に解釈すると、「涙がとても早く流れたので、人目を忍んでいた私の恋も、堤が崩れるように露見してしまった」という意味かな。
□作品としては悪くないものだそうです。でも先輩から「くづる」という不吉な用語があることを指摘されたらしい。晴の席にのぞむにはそれなりの気配りが必要なことを知ったとのこと。
□この会の主催者は中宮高松院だったそうです。帝や后の死を「崩ず(ほうず)/崩御(ほうぎょ)す」ということから、「くづる」は禁忌とされていたらしい。結婚式で「別れる、切れる」を言ってしまうような感じなのでしようか。
□今でも毎年1月には宮中で歌会始が催されます。あの場でも「くづる」はタブーなのでしょうか。ちょっと知りたいですね。
[に]「新古今和歌集」のために12首を提出したが、1つも入選しなかった(×)
■参考資料*5によれば、「10首が収載された」だそうです。
□元久(げんきゅう)2年(1205年)に「新古今和歌集」が完成しているらしい。そもそもは後鳥羽院の勅命で制作された勅撰和歌集だそうです。10首入選はなかなかの好成績らしい。
[ほ]「方丈記」は和歌を除くと鴨長明の唯一の著作物である(×)
■「方丈記」のほかに、歌論書の「無名抄(むみょうしょう)」、説話集である「発心集(ほっしんしゅう)」などが現在に残されているようです。
■余談です。前述のとおり、150422現在のWikipediaは4月22日に「方丈記」が書き上げられたとしています。参考資料*1の「方丈記・現代語訳注」によれば、「建暦二年の三月晦日、すなわち二十九日は、陽暦の五月九日に当る」。Wikipediaとは意見が違うのかな。
■素町人がよく使っている「新暦←→旧暦 変換」という道具によると、建暦2年3月29日=1212年5月2日だそうです。建暦2年の3月は小の月であり、晦日(つごもり)は29日だったらしい。Wikipediaの建暦の項の「西暦との対照表」によれば、建暦2年の弥生1日は1212年4月4日に相当するそうです*4。これで計算しても、建暦2年3月29日=1212年5月2日になります。
■なお、晦日は月の末日の意味もあれば、下旬という意味もあるそうです。鴨長明氏は、「晦日ごろ」と書いているようですので、おおざっぱに下旬の意味で使ったのかもしれません。だいたい西暦の4月下旬から5月上旬ぐらいに書き上げたというのは間違いないのでしょう。
◆参考*1:書籍「方丈記 全訳注」211〜224頁、文庫初版、ISBN4-06-158459-6、安良岡康作(やすらおか こうさく)、講談社学術文庫
◇*2HP「鴨長明 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E9%95%B7%E6%98%8E
◇*3HP「4月22日 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8822%E6%97%A5
◇*4HP「建暦 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%9A%A6
◇*5書籍「世界人物逸話大事典」初版949頁、 朝倉治彦・三浦 一郎編、ISBN4-04-031900-1、角川書店

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
教科書に載っていた像もたしか坊主だった記憶があります。
このころは、神官とかこだわらなかったのかもしれませんね。
去年ぐらいからサラリーマンでも坊主が増えましたね。
楽だからそうでありますがかえって面倒のような気もします。
あの状態を保つには、毎日そらなければいけませんからね。
ねこのひげ
2015/04/26 06:45
コメントをありがとうございます。

 神官が出家するのは、一種の「寝返り」とか「転向」なのかと現在の者は思ってしまいます。でも、当時の感覚では違ったのでしょうね。
 素町人はやったことがありませんけど、いわゆるスキンヘッドの人は毎日剃っているわけですね。手入れがたいへんだな。ご苦労さまです。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2015/04/26 08:44

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