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zoom RSS 少女に歌道の大切さを教わった太田道灌。のちには古い和歌を実生活に応用していたの?

<<   作成日時 : 2015/02/07 07:35   >>

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★歴史★
問題:太田道灌(どうかん)をご存知だと思います。とくに東京で生まれ育ったかたは、最初に江戸に城を築いた人物として、学校でも教わったことでしょう。城を守護してもらうため、赤坂の日枝神社を勧請(かんじょう、神仏をまつること)したのも太田道灌だそうです。
■太田道灌は永享(えいきょう)4年(1432年)に生まれたようです。永享(えいきょう)8年(1436年)生まれの室町幕府8代将軍義政と同時代人だったらしい。また、後北条家の祖、北条早雲(そううん)はおなじ年の生まれです。どちらとも面会したことがあるらしい。
■ただし、近年では、北条早雲は康正(こうしょう)2年(1456年)生まれ説が有力になっているようです。年はだいぶ離れていたのかもしれませんが、「別本今川記」という本には、ある揉め事の交渉の場で早雲が調停案を提示し、道灌が了承したという記述があるようです*1。
■落語愛好家にとっては、道灌はより身近な存在かもしれません。「道灌」という落語があります。鷹狩りの際に俄雨(にわかあめ)にあった道灌は、百姓家を見つけて雨具の簑を借りようとします。
◇*HP「簑 - Google 検索」(画像)
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%B0%91&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP523JP523&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=8WKFVL_gM4GxmwXBloKQBw&ved=0CAgQ_AUoAQ&biw=951&bih=344
百姓家から少女が出てきて、「お恥ずかしゅうございます」といって山吹の枝を盆に載せて差し出し、頭を下げたそうです。道灌はピンと来ません。家来の中に和歌に詳しい者がいて、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という兼明親王(かねあきらしんのう)の古歌がある。「実の」と「簑(みの)」をかけ、「お出しできる雨具はございません」という断りでございましょうと言ったそうです。これを聞いた道灌は「ああ、余はまだ歌道(かどう)に暗い」と嘆き、それ以来和歌に励み、歌人として知られるようになったというお話です。口絵はその場面を描いたものらしい。明治22年に発行されたものだそうです*7。
■この落語、ちょっと不思議なところがあります。星の数ほどある和歌の中からこの歌を選んだ少女は凄すぎます。またこの歌を知っていて、見事に解釈した家来…中村重頼(しげより)という人物…も凄すぎます。ちょっと不自然なぐらいだなと思っていました。
■参考資料*4の和歌のHPによれば、この歌には前に説明がついているらしい。「小倉(おぐら、京都の西の地名)の家に住み侍(はべ)りける頃、雨の降りける日、蓑(みの、簑)借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける」という文だそうです。
■雨具を貸してくれと言われて山吹の枝を渡すのは少女が初めてではなく、歌の作者、兼明親王もやっていたらしい。この時も渡されたほうはピンと来なかったようです。不審顔で濡れて帰ったらしい。後日、あれはどういう意味だと尋ねられたので、その返事に歌を作って渡したという意味のようです。
■つまり、雨具を貸し出せず、かわりに山吹の枝を渡した理由を説明する歌だったようです。そしてその駄洒落と逸話が面白くて「知る人ぞ知る」という歌になったのかもしれません。そう考えれば不自然さも溶けて消えます。
■なお、落語では末尾の句が「なきぞ悲しき」になっています。でも、後拾遺和歌集の歌を掲載しているHPを眺めたところ、2つ見つかりましたが2つとも「なきぞあやしき」になっています*3*4。この「あやし」は、参考資料*4によれば「(無いことが)申し訳ない、心苦しい」という意味らしい。まっ、どちらでもそんなに大きくは変わらないようですが。
■さて、賤しい身分の少女に歌道の大切さを教わった太田道灌は一念発起します。「3日で体得、和歌の道」とか「猿でもわかる和歌マニュアル」、「ゼロから始める入門和歌」などを買い求め、修業に励んだらしい。その成果でしょうか、のちには和歌を実生活に応用した逸話をいくつか残しているようです。では、道灌が実際に残した逸話は次のどれでしょうか? (正しいお話は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]古歌から風向きの変化を知った
[ろ]古歌から浅瀬のありかを知った
[は]古歌から潮の満ち引きを知った
[に]古歌から雲の流れを知った
[ほ]古歌から馬の疲労度を知った
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]「古歌から浅瀬のありかを知った」と[は]「古歌から潮の満ち引きを知った」が正しい
説明:後年、道灌は夜なのに利根川を渡らねばならないことがありました。深さがわからず、皆ためらいます。道灌はひとりで馬を川に乗り入れて、浅瀬を見つけてきたそうです。道灌いわく、「古歌によって見つけることができた」とのこと。その歌は、「底ひなき 淵やは騒ぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ波立てて」というものだそうです。新月とか曇りの日ではなくて、ある程度の光はあったのでしょうね。波の白く光っている箇所を渡れば大丈夫と確信したようです。
■別の夜、大将の上杉定正(さだまさ)と副将である道灌は、多くの兵士を引き連れて海沿いの崖道を通らねばならないことがあったらしい。しかし、崖の上に敵が潜んでいて、岩でも落とされたら部隊は大損害を受けます。海岸を通れればいいのですが、見通しが悪くて潮が引いているかどうか、確認しづらい状況だったらしい。道灌は探りを買って出て、すぐに「大丈夫、急いで軍勢を進めるべし」と進言したそうです。あまりに早く結論が出たので親分は疑問を感じながらも繰り出すと、果たして潮は引いていて、遠干潟を楽々と行軍できたらしい。
■干潟まで行かずにどうやって潮の満ち引きを知ったのかと大将は副将に聞いて見たらしい。副将は答えます。「遠くなり 近くなるを(鳴尾、兵庫県の海沿い。成るの掛け詞)の 浜千鳥 声にぞ汐の 満干をば知る」。山吹で面目を失った道灌ですが、研鑽を積み重ね、和歌の博士となり、いくつもの場面でドヤ顔を見せつけたようです。
■ドヤ顔を見せすぎたからではないでしょうけれど、太田道灌は、親分上杉定正の不興を買って暗殺されてしまったようです。文明(ぶんめい)18年(1486年)のことでした。満54歳ぐらいでしょうか。殺害現場は風呂場だったらしい。幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ、幡随長兵衛とも)、源義朝(よしとも、頼朝・義経の父)も、源頼家(よりいえ、鎌倉幕府2代目将軍)もみんな風呂場で殺されています。強い奴は無防備な場所で狙われるのかな。
■刺客に槍で刺されます。道灌が和歌に通じていることを知っていたのでしょうか。刺客も粋な奴で上の句を詠んだらしい。「かかる時 さこそ命の 惜しからめ」。どうだ、命が惜しいだろうとからかったのかな。道灌は深傷(ふかで)をおいながら、下の句を詠んで返したそうです。「かねてなき身と 思い知らずば」。もし死ぬ覚悟がなければ、きっと命を惜しむだろうな(でも俺は違うよ)…と言っているのかな。
■最期の逸話は、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)の「武士道」で紹介されているらしい。「勇気ある真に偉大な人物が死に臨んで有する余裕の一例としている」そうです*1。
◆参考*1:HP「太田道灌 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%81%93%E7%81%8C
◇*2HP「道灌 (落語) - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%81%8C_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
◇*3HP「和歌データベース」(後拾遺集)
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i004.html
◇*4HP「兼明親王 千人万首」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaneaki.html
◇*5書籍「戦国逸話事典」初版20〜21頁、逸話研究会編、IBSN4-404-01585-2、新人物往来社
◇*6HP「江戸城を最初に築いた太田道灌。農民を兵隊に仕立てていたってホント? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200708/article_17.html
◇*7HP「内外資料堂(伝記・逸話)」(口絵)
http://www.shiryodo.jp/shiryo_story2.html

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15世紀に太田道灌が創建した千代田稲荷神社。560年後の現在はどこにあるの?
●●●●●★歴史★● 問題:太田道灌(ドウカン、永享(エイキョウ)4年(1432年)〜文明(ブンメイ)18年(1486年))をご存知だと思います。室町時代、銀閣寺を創建した足利義政(よしまさ、永享(エイキョウ)8年(1436年)〜延徳(エントク)2年(1490年))と同時代を生きた関東の武将です。江戸城を最初に築いた人物ですね。また、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌を知らなかったことを恥じ、歌道に精進したことも有名です。落語「道灌」にとりあげられ... ...続きを見る
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2017/03/04 08:13

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
この出会いの後に、この少女となんにもなかったのかな〜?
と俗物は思うのでありますがね・・・
こういう歌を知っていいるという事は、都落ちしてきた貴族の娘とかの可能性が大でありますがね。
ねこのひげ
2015/02/08 10:23
コメントをありがとうございます。

 なるほど。そういうことも考えられますね。あとで江戸城に来るように…なんて言っていたのかもしれません。
 落語では「しずの女(身分のいやしい女性)」となっていましたけれど、単なるお百姓の娘さんではなさそうですよね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2015/02/09 08:00

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