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zoom RSS 江戸の焼き芋屋。今と同じで「九里より美味い十三里」と看板に書いてあったの?

<<   作成日時 : 2014/12/17 08:40   >>

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★歴史★
問題:寒くなってきました。スーパーや駅前の屋台で売られている焼き芋にそそられる季節ですね。焼き芋は今でも人気のあるロングセラー商品です。江戸時代に生まれ、江戸の後期には、江戸にも焼き芋屋がたくさんあったらしい。
■寺門静軒(てらかど せいけん)の「江戸繁昌記」によれば、蕃薯(ばんしょ、サツマイモ)は、中国へは明の万暦(ばんれき)帝の頃に入ったらしい。1600年前後だそうです。わが国へは元禄(げんろく)戊寅(つちのえとら)=11年(1698年)に琉球王から伝えられたらしい。原産地はメキシコ、あるいは中南米と言われます。いずれにせよ新大陸に侵入した西洋人から伝えられたのでしょう。
■江戸時代、関東では薩摩薯(サツマイモ)と呼びます。関西では琉球薯と呼んでいたらしい。江戸の女性は「阿薩(オサツ)」と呼んでいたらとのこと。いまでもオサツという呼び方をする人がいますね。
■焼き芋は、なぜか番所、木戸番屋とか自身番屋で売っていたらしい。これらは一種の交番であり、またミニ消防署です。町内の人々によって運営されていたようです。
■番所で焼き芋を売るのは、蕃薯の駄洒落…のはずはないですね。たしか、落語の「大工調べ」の中にも、番太が売っている話がありました。火を使う仕事なので、一般の駄菓子屋などでは許されなかった。木戸番屋や自身番屋には火の見櫓があったりして、火災への危険意識も高いので、特別に火気の使用が許されていた…という話も聞きます。
■焼き芋屋の看板には八里半と書かれていたそうです。「…そこで焼き芋と栗と比較すると、その風味はよく似ているが、微細に味覚を働かせてみると、一寸味が下位にあるように思われる。それだから洒落て八里半と云ったのだということだ。江戸は八百八町。その町ごとの番所にこの焼き芋を売っている。そしてきっとこの八里半の看板を掲げている」。
■いまでは「九里より美味い十三里」としています。「九里(栗)+四里(より)=十三里」だという話ですね。江戸の人のほうがいまの焼き芋販売業者よりも四里半ほど控え目です。
■焼き芋は4文も出せば子供のおやつになったらしい。10文も出せば大人の食事に足るほど購入できたそうです。では、冬季中に1軒の焼き芋屋があげる売上げは、どのぐらいでしょうか? 「江戸繁昌記」に記載されている数字を正解とします。
[い]10両ぐらい
[ろ]25両ぐらい
[は]50両ぐらい
[に]100両ぐらい
[ほ]200両ぐらい
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]25両ぐらい
説明:「江戸繁昌記」によれば、少なくとも20〜30両ぐらいはあったそうです。客足の多い店になると、100両の売上金があったとのこと。寺門静軒先生の推定では江戸全体では5000〜1万両も焼き芋屋が売り上げているらしい。推定が当たっていたとすれば凄いですね。
■焼き芋屋は朝六つから店を開けているとのこと。冬場の季節商品です。冬の朝六つはだいたい朝6時半から7時ぐらいでしょうか。早く感じられるかもしれませんが、江戸時代の人の生活時間は現在にくらべて3〜4時間ぐらいは前にずれているようです。早寝早起きです。
■仕舞うのは四つ時だそうです。夜の10時前後でしょうか。営業時間が長いですね。それだけ薄利多売な商売だったのかもしれません。なお、木戸番が町々の木戸をいっせいに締めるのも四つ時だそうです。それ以降はいちいち木戸番に断って通らなければならなかったようです。人の通りがグンと減るのでしょうね。
■「竈(かまど)の煙はもうもうとあがり、焦げる香りがぷんぷんと鼻を打つ。柱や梁は真黒になって、戸や窓は火気で熱くなっている。産婆も買いに行けば、老爺も買いに行く。おさんどんも買いに行けば下男も買いに行く。お嬢さんが下女に買いにやらせる時には、きっと小声で、『また阿薩を買っておいで』というし、主人が、召使の男に買いにやらせる時には『小さくって数の多いのよりか、大きくって数のない方がいいよ』という。行脚の坊さんは、昼飯のかわりに買って托鉢に入れるが、盲目の乞食は、もらった銭を入れた財布を振って朝のひもじい腹にやっと入れこむ」。
■老若男女、みんなが焼き芋のファンだったようですね。中には銀貨で一籠分も買って帰る人もいたらしい。庚申講(こうしんこう)で集まる人たちへの振る舞いかな*3。素人芝居に集まった観客へのもてなしかな*4。
■焼き芋が大流行する前は大福が流行していたようです。1個が4文で大きくて暖かいものだったらしい。現在の餡饅(あんまん)のように蒸籠(せいろ)でふかしていたのでしょうか。「…悪感でもした時なら、体を暖めるには、これに限る」と記されています。
■ところが、文化文政のころ(1804〜1830年)なのでしょうか、大福餅はだんだん凝ったつくりになり、形は小さくなり、高級化していったようです。値段もあがったらしい。だんだん貧乏人の口には入らなくなったそうです。「江戸繁昌記」が最初に出版された天保時代の初めの頃、1832年(天保(てんぽう)3年)ごろは、饅頭や羊羹は、まだ高価だったらしい。焼き芋だけは庶民の味方、「貧乏人の不死の妙薬」として称揚された…という話があるようですす。
■これは、大福が立ち退いた後の隙間に焼き芋が入り込んだという説なのかな。逆に安くて温かくて美味い焼き芋が大福を駆逐していったのかもしれませんけどね。
◆参考*1:書籍「江戸繁昌記」初版35〜38頁、寺門静軒(てらかど せいけん)著、佐藤進一(しんいち)訳、三崎書房
◇*2HP「木戸番 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E7%95%AA
◇*3HP「庚申の晩にはセックスはタブーなの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200906/article_41.html
◇*4HP「ゑびす(えびす)講の日。そもそもゑびす様はなんの神様なの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/201011/article_17.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
奉行所の与力たちも、屋敷の土地を質屋や医者などに貸して生活していたようですが、幕府から払われる賃金が安かったので、副業として駄菓子屋などをやることを黙認されていたというのは読んだことがありますが、そこまで儲かっていたとは知りませんでした。
副業が本業になった感じですね。
ねこのひげ
2014/12/23 08:54
コメントをありがとうございます。

 10両盗めば首が飛んだ時代の25両は、売上げとしては大きいですね。どのぐらいの利益があったのかな。
 薩摩芋はなかなかいたみませんし、特別な技術がなくてもできる商売だったのかもしれません。副業としては悪くなさそうですね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/12/23 14:44

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