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zoom RSS 江戸詰の武士の暮らしぶり。門限破りを避けるための賄賂はいくらぐらいだったの?

<<   作成日時 : 2014/11/29 08:08   >>

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★歴史★
問題:江戸時代の江戸には、町人人口とほぼ同じぐらいの武士がいたと言われています。その中には幕臣たちも多くいました。また地方から江戸に来ている武士たちも多くいたようです。
■江戸に来ている武士を江戸詰(えどづめ)とか江戸勤番(きんばん)と呼ぶそうです。江戸詰は3種類に分けられるらしい。まず、参勤交代で江戸に来た藩主と一緒に江戸に滞在する武士がいます。これが狭義の江戸詰らしい。しばらくすると藩主とともに帰国するようです。滞在期間は1年だったり、もっと短かったりするようです。
■次に、参勤交代で江戸へ同道し、到着後トンボ返りで帰国する武士がいます。立帰り(たちかえり)と呼ばれたらしい。旅行中の警護や雑務などを担当するのかな。短期滞在者ですね。
■さらに江戸屋敷に常駐する武士もいます。定府(じょうふ)と呼ばれたそうです。幕府との渉外・折衝や情報収集などを担当する家老級、あるいは中級武士を留守居役(るすいやく)と呼ぶようですが、彼らも定府に入るらしい。
■立帰りの人数は藩の規模、参勤交代の行列の規模によってまちまちです。定府や江戸詰の人数もまちまちらしい。江戸の武士居住数は、なかなか確定できないようです。武士の人口はいつも推定値ですね。
■江戸詰の武士は、外出についてなかなか厳しい制限があったらしい。もちろん藩ごとに事情は異なるのでしょう。1つの例でいえば、伊予国松山藩では、外出は他行(たぎょう)と呼ばれており、月4回と決められていたらしい。なんだか寄宿舎みたいですね。松山藩は寛永(かんえい)12年(1635年)から維新まで松平姓の殿様が治める親藩だったそうです。その分だけ厳格なのかな。
■4回の外出許可のうち、2回は明け六つから暮れ六つまで。残り2回は昼八つから暮れ六つだそうです。春分・秋分の日ならば江戸では明け六つが現在の5時半ごろ。暮れ六つが18時ごろらしい。昼八つは午後2時前後なのでしょうか。夏は長く外出できそうですが冬は短くなります。
■門限に遅れると、御門切れ(ごもんぎれ)と呼ばれて処罰を受けるとのこと。松山に戻されて謹慎させられるようです。大変だな。同じように親藩の紀州藩でも、門限破りが露見すると御役御免という処罰だそうです。
■伊予松山藩は、愛宕下や三田に屋敷があったらしい。浅草猿若町で芝居見物をした場合、大概は1幕を残して退散したそうです。でもどうしも大切り(おおぎり、最後)まで観たい場合は、見物後に愛宕下まで8km、三田までの10kmを駆け足で戻ったなんていう人の話も残されているそうです。ハーフマラソンでしょうか。健脚の人なら1時間以内で帰れるのかな。
■当然ながら、門番にいくらか渡して門限後にすり抜ける人も出てくるようです。では、幕末、紀州藩の下級武士、酒井伴四郎(ばんしろう)の日記に記されている門番への賄賂の額は、次のうちどれにいちばん近いでしょうか?
[い]16文(屋台の蕎麦屋でしっぽく蕎麦一杯)
[ろ]50文(生鰯(いわし)10尾ほど)
[は]100文(米1升ほど)
[に]200文(日本橋から新吉原(浅草の先)までの駕籠代)
[ほ]400文(番傘2本ぐらい)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]100文(米1升ほど)
説明:わずか100文なんですね。1升の米は1.5kgぐらい。5kgの米を2000円とすれば600円ぐらいなのでしょうか。
■酒井伴四郎は万延(まんえん)元年(1860年)に28歳ぐらいで江戸に出てきたようです。このころは貨幣価値がどんどん下がってインフレ状態だったとも聞きます。ひょっとしたら600円よりもっと安かった可能性もあるのかな。
■最初はかなり冷厳だった門限も、実は徐々に形骸化していったと参考資料*1には記されています。たとえば伊予松山藩では、一時(いっとき)の長さを刻限によって変えちゃったらしい。昼七つ(午後4時ごろから暮れ六つ(本来なら午後6時ごろ)のあいだは通常の3倍の長さに設定したとか。一時は普通は2時間ぐらいですから、6時間にしちゃったということでしょうか。それじゃ午後10時ごろが「暮れ六つ」になってしまいます。昔の芝居は夜芝居はなかったそうです。照明の関係らしい。ということは、最後まで見ても悠々と間に合うわけかな。でも、吉原で時間を忘れて遊んでいたら、やっぱり門限破りでしょうけれど。
■時刻を知らせる拍子木打ちを、門限破りになりそうな者の同僚が抱きとめちゃうとか、賄賂を使って拍子木を打つのを遅らせるなども行なわれたようです。結局、「武士の情け」により、門限破りはあまり出なかったのかもしれません。
◆参考*1:書籍「江戸文化歴史検定公式テキスト上級編【江戸博覧強記】」初版134〜136頁、江戸文化歴史検定協会編、ISBN978-4-09-626602-1、小学館
◇*2HP「伊予松山藩 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E8%97%A9
◇*3HP「日の出日の入り(日本地名選択) - 高精度計算サイト」
http://keisan.casio.jp/exec/system/1236677229
◇*4HP「価格」
http://www.teiocollection.com/kakaku.htm

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
吉原は、昼店といって門限のある武士たちが遊べる昼間の営業があったようですね。
夜も、本当は午後9時ごろまでしか営業できないのを夜中の12時まで営業するのを見逃してもらっていたようですね。
かなりの賄賂が幕閣に送られたんでしょうね。
ねこのひげ
2014/11/30 08:57
コメントをありがとうございます。

 吉原では午前零時ごろの九つが引け。さらに深夜二時頃の八つが大引けだ…と落語学の教科書には書いてあります。
 午後十時頃である四つには江戸の各町の木戸が閉まってしまいます。吉原の営業も終わらなければならないのですが、おっしゃるとおり、おめこぼしで深夜まで営業できた。
 ただし、この時刻を世間並に「九つ」と呼ぶと規則違反があからさまなので、吉原の言葉としては、「引け四つ」という婉曲な表現を使った…と、これは歌舞伎のHPに記されていました。「四つの次の時刻」というほどの意味らしい。
 「引け」という言葉はラストオーダーを意味すると同時に、その時刻そのものの呼称でもあったのかもしれません。
 吉原から幕府への賄賂はどのぐらいの額だったのでしょうか。1日千両(の売上げがたつ)といわれるほどの繁盛ぶりだったようですから、その額も凄かったのかな。あるいは、長年の付き合いですから、一種の税金のような形で固定されていたのでしょうか。
 そのへんのお金の流れかたや金額を知りたいですね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/11/30 21:02

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