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zoom RSS 日本最高の売れっ子画家、狩野永徳(えいとく)が描いたものは安土城の障壁画なの?

<<   作成日時 : 2014/10/11 09:09   >>

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★歴史★
問題:狩野永徳は狩野派の4代目にあたるそうです。狩野派はご存知のとおり、近世日本画壇の万年与党です。時の権力者に愛され、明治までは江戸幕府の御用達として活躍しました。
■狩野派の祖といわれるのが狩野正信(まさのぶ)。室町幕府に御用絵師として仕えました。古い記録によれば、寛正(かんしょう)4年(1463年)、応仁の乱が始まる前の京都にいて、このときすでに幕府御用絵師の地位にあったそうです。生まれたのは永享(えいきょう)6年(1434年)だそうですから、満19歳ぐらいで安定した地位と収入を得ていたのかな。亡くなったのは享禄(きょうろく)3年(1530年)と言われています。満96歳ぐらいまで生きたのかな。21世紀の日本ならさほど珍しくはありませんが、当時としては驚異のご長寿さんでしょうね。
◇*HP「狩野正信 - Google 検索」(画像)
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%AD%A3%E4%BF%A1&biw=1920&bih=1025&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=j284VOrKKoOO8QXbzIHoAg&sqi=2&ved=0CAYQ_AUoAQ
■狩野元信(もとのぶ)が2代目です。「狩野派の画風を大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた」と言われているらしい。
◇*HP「狩野元信 - Google 検索」(画像)
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%AD%A3%E4%BF%A1&biw=1920&bih=1025&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=j284VOrKKoOO8QXbzIHoAg&sqi=2&ved=0CAYQ_AUoAQ#tbm=isch&q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%85%83%E4%BF%A1
■狩野元信の3男が狩野松栄(しょうえい)だそうです。兄2人は若くして世を去ったらしい。Wikipediaの狩野派の系図では3代目になっています。松栄の長男が狩野永徳とのこと。
◇*HP「狩野松栄 - Google 検索」(画像)
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%AD%A3%E4%BF%A1&biw=1920&bih=1025&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=j284VOrKKoOO8QXbzIHoAg&sqi=2&ved=0CAYQ_AUoAQ#tbm=isch&q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%9D%BE%E6%A0%84
■狩野永徳は、安土桃山時代にいちばん多忙だった絵師のようです。Wikipediaによれば、天文(てんぶん)12年(1543年)に生まれ、天正(てんしょう)18年(1590年)に亡くなっています。仕事中に病を得てほどなく亡くなったらしい。「現代風に言えば過労死かともいわれている」とのこと*5。労働災害の認定は得られたのかな。
◇*HP「狩野永徳 - Google 検索」(画像)
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%AD%A3%E4%BF%A1&biw=1920&bih=1025&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=j284VOrKKoOO8QXbzIHoAg&sqi=2&ved=0CAYQ_AUoAQ#tbm=isch&q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%B0%B8%E5%BE%B3
■本日は、日本美術史上の大巨人、狩野永徳の作品についてのクイズです。次のうち、狩野永徳が手がけた作品はどれでしょうか? (手がけた作品は無いかもしれませんし、複数かもしれません)
[い]安土城の障壁画(しょうへきが、襖(ふすま)や壁に描かれた絵)
[ろ]聚楽第の障壁画
[は]大坂城の障壁画
[に]京都御所の障壁画
[ほ]東福寺の天井画
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:すべて永徳が手がけたもの
説明:狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、さまざまな建物の障壁画を手がけたそうです。また宮中や有力寺社の障壁画・天井画なども多く手がけたとのこと。最後に手がけたのは、東福寺の天井画だったようです。
■信長の依頼で安土城の障壁画を手がけたときは、一家をあげて制作に携わったそうです。書院から三上山(みかみやま)、別名近江富士が見えるそうです。永徳はとくにその部屋の襖絵を直々に言われたらしい。三上山の姿を流麗に描いたようです。地図によれば、三上山は南西方向に見えたようですね。
◇*HP「Google マップ」(安土城から三上山を経て唐崎)
https://www.google.co.jp/maps/dir/%E3%80%92521-1311+%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82%E5%AE%89%E5%9C%9F%E7%94%BA%E4%B8%8B%E8%B1%8A%E6%B5%A6+%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E%E8%B7%A1/%E4%B8%89%E4%B8%8A%E5%B1%B1/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%B8%82%E5%94%90%E5%B4%8E/@35.07554,135.9264819,11z/data=!4m20!4m19!1m5!1m1!1s0x60017ea9044c677b:0xc9a3d1f16a8c05e7!2m2!1d136.139406!2d35.155919!1m5!1m1!1s0x600170158e9312b3:0xc15210018e3301cf!2m2!1d136.0376437!2d35.0506
■できあがってみると、昼間は開け放てば実物の三上山が眺められます。夜は襖絵の三上山が見られます。「障子を半分開いておくと、はなたれた障子ごしに三上山の実景が見え、その景色が襖に描かれた景色にそのままつながって、実際には見えない唐崎あたりの風光まで見わたせる」*6。どんな感じなのかよくわかりませんが、「信長はこの機知に富んだ趣向をたいへん気に入り、永徳を法印の位に推挙した」とのこと。法印というのは坊さんの最高位だそうです。なぜ絵師に坊さんの位を与えようとしたのか。わかりませんでした。
■京都御所の障壁画というのは、天皇が私生活を送る内裏に描かれたそうです。今では残っていないのでしょうね。安土城も聚楽第も大坂城もみんな無くなってしまいましたので、狩野永徳が残した作品は、わりと数が少ないようです。
■歴史の教科書にも登場する永徳の作品では、「洛中洛外図屛風(びょうぶ)」というのがありますね。
◇*HP「洛中洛外図 上杉本 - Google 検索」
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&ie=UTF-8&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP523JP523&q=%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3+%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%9C%AC&gws_rd=ssl&tbm=isch
信長が上杉謙信を恐れ、ご機嫌伺いのために贈ったともいわれる屛風です。絵の中に謙信らしき人物が描かれている…という噂を聞いたことがあります。平成7年(1995年)に国宝に指定されたそうです。
■狩野永徳の真筆かどうかは若干の議論があったようです。現在主流になっている説では次のような物語があるらしい。「足利義輝(13代目将軍)は、上杉謙信に上洛して管領に就任せよというメッセージを込めて贈るため、洛中洛外図を狩野永徳に発注した。しかし、永禄8年5月に義輝が非業の死を遂げた結果、同年9月に完成した絵は永徳の許にとどまった。織田信長が上洛したあとの天正2年、永徳は信長に接近し、信長が当時同盟を結ぶ必要があった謙信に絵が贈られた」。
■永徳の作品で、現在も残され、よく知られているのでは「唐獅子図」があります。
◇*HP「狩野永徳 唐獅子図 - Google 検索」
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&ie=UTF-8&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP523JP523&q=%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%B0%B8%E5%BE%B3%E3%80%80%E5%94%90%E7%8D%85%E5%AD%90%E5%9B%B3&gws_rd=ssl&tbm=isch
■想像上の獅子を描いたのでしょう。勇壮な感じの絵のはずですが、何かユーモラスでもあります。宮内庁の三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)という博物館に行くと見られるようです*8。
◆参考*1:HP「狩野派 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%B4%BE
◇*2HP「狩野正信 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%AD%A3%E4%BF%A1
◇*3HP「狩野元信 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%85%83%E4%BF%A1
◇*4HP「狩野松栄 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%9D%BE%E6%A0%84
◇*5HP「狩野永徳 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%B0%B8%E5%BE%B3
◇*6書籍「世界人物逸話大事典」初版263頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04- 031900-1、角川書店
◇*7HP「洛中洛外図 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3
◇*8HP「三の丸尚蔵館 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%81%AE%E4%B8%B8%E5%B0%9A%E8%94%B5%E9%A4%A8
◇*9HP「狩野元信の誕生日かつ狩野芳崖の命日。二人は狩野派最初の人と最後の人なの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200711/article_9.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
よく言えば、経営手腕があったんでしょうね。
悪く言えば、権力者に取り入るのがうまかったという事でしょうけど・・・・
芸術家といえど、買ってくれる人がいなければ生活できませんからね。
ヨーロッパでも、宮廷画家になるのが絵描きたちのあこがれだったようですからね。
権力者が滅びれば、所有していた芸術作品も消えてしまいますね。
安土城や大阪城、聚楽第・・・残っていれば、さぞや壮観だったでしょうね。
ねこのひげ
2014/10/12 07:14
コメントをありがとうございます。

 日本で少なからぬ数の町人が経済力を持つようになるのは江戸時代以降なのでしょう。これは他の国でもおなじぐらいなのかな。
 それまでの芸術家は、世俗の権力者か宗教家などの経済力のある人たちの庇護が必要だったのでしょうね。生きるための方便として、注文に従ったのかと思われます。

 ホントは印象派風の絵とか、野獣派とかキュビズムの絵を描きたかったけれど、スポンサーが首を縦に振らなかったのかな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/10/12 19:17

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