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zoom RSS 三國連太郎・長門裕之・宍戸錠・西郷輝彦・草刈正雄らが演じた徳川幕府の重鎮とは誰なの?

<<   作成日時 : 2014/08/02 08:49   >>

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★歴史★
問題:他にもたくさんの役者が演じています。神山(こうやま)繁・峰岸徹・平泉成(せい)・名高達男・目黒祐樹などなど、そうそうたる役者連がこの人物になりきったようです*1。
■重要人物であることには間違いありません。でも、歴史の表舞台にはあまり立たなかったようです。脇役に徹し、家康の天下統一を助け、江戸時代の平和をつくりだす手助けをしたらしい。
■この人物は本多正信(まさのぶ)と呼ばれています。天下統一途中の家康に従い、江戸幕府の老中をつとめたそうです。本日は重要人物のわりには知名度が高くない本多正信氏についての雑学クイズです。次の記述のうち、正しいものを選んで下さい。(正しい説明は無いかもしれませんし、複数かもしれません)
[い]徳川四天王とよばれる井伊・榊原・本多・酒井の本多出身であり、生涯を家康の側近として過ごした
[ろ]本能寺の変の後で功績を上げた
[は]家康が自分と反対の主張をしたとき、意見を求められると居眠りをしていたので聞いていなかったと答えるのが常だった
[に]20万石の禄を受け取っていたが、自分では少ないと感じていた
[ほ]家康よりも先に生まれ、だいぶ後に亡くなり、当時としては珍しい80歳越えの長寿を実現した
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[は]が正しい
説明: [い]徳川四天王とよばれる井伊・榊原・本多・酒井の本多出身であり、生涯を家康の側近として過ごした(×)
■徳川四天王は、井伊直政(なおまさ)・榊原康政(やすまさ)・本多忠勝(ただかつ)・酒井忠次(ただつぐ)の4人だそうです。本多忠勝は、最古参の家臣だそうですが、姓をおなじくする本多正信とはまるで関係がないらしい。
□もともとは鷹匠だったようです。身分としては士分だったらしい。でも、当時の技術者は一段低く見られていたようです。けっして側近として重用されていたわけではないらしい。
□永禄(えいろく)7年(1564年)、天文(てんぶん)7年(1538年)生まれの本多正信が満26歳のころ、三河で一向一揆が起こります。正信も熱心な信者であり、一揆側に加担したらしい。三河武士の半分は一揆に参加したともいわれる騒動です。突飛な行動をしたわけではありません。でも本多正信は、一揆側の幹部になったらしい。結局、家康が鎮圧に成功したようです。和議の成立後、一揆に参加した連中も多くは許されて戻ったらしい。でも本多正信は家康に許しを請うことなく、放浪の旅に出ます。
□戦国の梟雄(きょうゆう)といわれた松永久秀(ひさひで)の元に少しやっかいになっていたらしい。このとき久秀は、「徳川家康より逃げてくる侍を多く見ているが、皆、武勇の輩である。ところが正信のみは、剛ならず、また卑しからず、必ずや尋常の者ではない」と評したらしい。久秀のもとでは重用されたようですが、また放浪の旅に出ています。19年後、本能寺の変の前後にようやく家康に再雇用されたらしい。それまでは全国各地の一向宗の寺に寝泊まりしていたと言われています。それにしても20年近い放浪の旅は凄いな。
[ろ]本能寺の変の後で功績を上げた(○)
■天正(てんしょう)10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の2ヶ月半ほど前。3月11日(西暦では4月3日)に織田・徳川連合軍が武田勝頼(かつより)を滅ぼしました。
□本能寺の変の後では、羽柴秀吉と柴田勝家が主導権争いを演じました。家康の家臣の中には、いまこそ中央に打って出る好機と主張する者もいたらしい。このとき帰ってきたばかりの本多正信は、いまこそ旧武田を取り込む好機と主張したようです。この意見が採用され、本多正信は甲斐奉行として甲斐・信濃に派遣されます*2。
□織田の家来たちは甲斐を中心として駐屯していましたが、主君の急を聞いて多くが上方へ戻っていったらしい。いれかわるように徳川軍が甲斐入りします。本多正信に請われて甲斐入りした徳川家の重臣たちは、旧武田の家臣たちにあててそれぞれの「領地を安堵する」という書状を発行します。徳川家に自然と組み入れてしまったようです。
□一瞬の空白がうまれた甲斐には相模の北条氏直(うじなお)も魅力を感じたようです。大軍をもって侵攻しようとします。ところが徳川軍のゲリラ戦法に悩まされ、北条氏直は撤退したらしい。結局、ほとんど戦わずして甲斐と信濃の大部分、旧武田の家臣団、金鉱、治水技術などを入手してしまいます。
□復帰後第1作の大成功が奏功したのかどうかはわかりませんが、本多正信は家康の信頼を得て、なんと寝所に帯刀で入れる唯一の家臣となったらしい*1*2。なにしろ明智光秀(みつひで)のクーデターが成功したばかりのころです。どの戦国武将も身辺警護には神経をとがらせていたのに、家康の信頼を大きく勝ち得ているのは凄いですね。
[は]家康が自分と反対の主張をしたとき、意見を求められると居眠りをしていたので聞いていなかったと答えるのが常だった(○)
■これは噂話ですが、家康が独り言のように自分の意見を言い、賛成しかねるときは本多正信は寝たふりをしていたといわれます。はっきり「反対」といえば殿様が傷つくからでしょうか*2。
□秀吉が亡くなり、さらに翌年に前田利家(としいえ)が亡くなると、豊臣家臣の武闘派、加藤清正(きよまさ)、福島正則(まさのり)、黒田長政(ながまさ)らは石田三成(みつなり)を襲撃します。朝鮮半島で苦労したのに褒美が少なすぎる。これはすべて君側の奸(くんそくのかん、悪い重臣)、石田三成のせいである。実務派は武闘派に恨まれる運命のようです。
□家康のいる京都伏見に逃げこんできた石田三成の処遇について、本多正信は家康の様子を見に行きます。「今、思案している所じゃ」との返事を受けてこれは大丈夫と判断した本多正信は、そのまま帰ってしまったらしい。案の定、家康は息子の結城秀康(ひでやす)に護送させ、石田三成を居城である佐和山城まで送り届けたようです。家康と本多正信は阿吽(あうん)の呼吸といいますが、一種の以心伝心があったのかな。
□関ヶ原の戦いのあと、今度は石田三成の息子の処遇が問題になります。息子は京都妙心寺で僧籍に入っていましたが、なにしろ敵の大将の嫡男です。普通なら殺されるところです。妙心寺からは助命嘆願が出ていました。家康は本多正信に相談したらしい。
□本多正信は、三成は徳川家にとって大功のある人物なので赦免すべきと主張します。その大功というのは、「意味のない戦さを仕掛けてきてくれたおかげで、たった1日の戦さで西日本をも徳川家の支配下に置くことが出来た」ことだそうです。屁理屈のようにも聞こえますが、なぜか家康も納得し、石田三成の遺子は赦免されたとのこと。
[に]20万石の高禄を受け取っていたが、業績のわりには少ないと日記に記している(×)
■小田原評定で名高い小田原攻めのあと、家康は秀吉により関東に領地を変更されました。家臣の中には不満を漏らすものが多くいたらしい。でも、本多正信は好機と捉えていたようです。関東平野は広いので開発の余地はいくらでもある。新しい都市を建設していけると喜んでいたらしい。
□本多正信は、伊奈忠次(ただつぐ)や大久保長安(ながやす)らの有能な役人とともに、江戸を世界一の大都市へと育て上げていきます。
□本多正信は、高官としてさまざまな権限を握っていましたが、禄高は低く抑えました。相模国玉縄(たまなわ、現鎌倉近辺)藩主1万石だと言われています。生涯最大の時期でも2万2000石だったらしい。
□本多正信は武功で出世した人ではありません。いわば実務派です。石田三成がそうであったように、武闘派の人からは、かなり恨まれていたらしい。「腸(はらわた)の腐った男」などと評されていたようです。そんな自分が高禄を受けたら、必ず揉め事の種になると知っていたのでしょうか。どんなに家康から加増を言われても、断り続けたらしい。息子の本多正純(まさずみ)にも、3万石まではいいけれど、それ以上はけっして受け取るなとつねづねいっていたそうです。
□正純は父亡きあと、15万5000石の宇都宮藩主となったらしい。親父の言いつけを守らなかった男は、例の宇都宮城釣天井事件で失脚してしまいます*4。
[ほ]家康よりも先に生まれ、だいぶ後に亡くなり、当時としては珍しい80歳越えの長寿を実現した(×)
■天文(てんぶん)7年(1538年)生まれです。天文(てんぶん)11年12月26日(1543年1月31日)に生まれている家康よりも5歳ぐらい年上のようです。亡くなったのは元和(げんな)2年6月7日(1616年7月20日)とのこと。家康が死んだのが元和2年4月17日(1616年6月1日)です。2ヶ月も経たないうちに後を追ったようです。家康は満73歳、本多正信は満78歳ぐらいでの往生らしい。「80歳越え」ではありませんが、どちらも当時としてはたいへんな長生きだったのでしょう。
◆参考*1:HP「本多正純 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E7%B4%94
◇*2書籍「歴史を動かした陰の主役たち」初版52〜62頁、BS-TBS「THEナンバー2」 制作チーム、ISBN978-4-309-22588-3、河出書房新社
◇*3書籍「世界人物逸話大事典」初版916頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04- 031900-1、角川書店
◇*4HP「宇都宮城釣天井事件 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E9%87%A3%E5%A4%A9%E4%BA%95%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
譜代大名は禄高が少なく、外様大名は禄高を多くして、不満を抑えたようでもありますね。
その代り、譜代大名は老中などの重職につけて、プラスアルファの報酬をもらえるようにしていたようですね。
ねこのひげ
2014/08/03 10:47
コメントをありがとうございます。

 最初の武家政権は不器用で短期間で終わりましたし、2度目の武家政権も後半期はほとんど権力が分散してしまいました。
 3度目の正直かな。経験から得たさまざまな知恵を使ったわけですね。世界史上珍しいほどの長い太平と繁栄を得られたわけですから、たいしたものです。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/08/03 17:21

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