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zoom RSS 発掘直後の弥生土器。関係者にはなんと呼ばれていたの?

<<   作成日時 : 2014/08/23 21:14   >>

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★歴史★
問題:明治17年(1884年)3月2日、東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で貝や縄文土器とともに口縁を除いてほぼ完全な形の素焼きの壺が出土したそうです*1(口絵参照*6)。その7年ほど前、明治10年(1877年)、エドワード・モースによって発見された大森貝塚の縄文式土器とは明らかに違う特徴を持っていたとのこと。
■発見したのは東京大学の学生だった有坂鉊蔵(しょうぞう)ら3名だったらしい。この土器はのちに弥生(式)土器と呼ばれるようになりました。でも発掘当時は、別の名前で呼ばれていたとのこと。では、2000年近く土中に眠っていた壺の当時の仇名(あだな)、東京大学人類学教室内での通称は次のどれだったでしょうか?
[い]朝顔
[ろ]半瓢箪(はん ひょうたん)
[は]無花果(いちじく)
[に]三つ目小僧
[ほ]忠臣蔵
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]忠臣蔵
説明:口絵では少しわかりづらいのですが、参考資料*2によれば、「土器の上部の山形の文様が、忠臣蔵の芝居でよくみる形だった」という理由で「忠臣蔵」と呼ばれたらしい。忠臣蔵のどの場面で山形の模様が見られるのでしょうか。討ち入りの際の大名火消しの装束かな。はっきりとはわかりません。
▼討ち入り場面の浮世絵
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■この大発見が世間に公表されたのは、明治22年(1889年)になってからだそうです。坪井正五郎(しょうごろう)という人物が発表したとのこと。有坂は後に海軍中将になった人で工学が専攻であり、考古学は門外漢だったようです。たまたま発掘を手伝っていたのかもしれません。坪井と白井光太郎(こうたろう)という向ヶ岡貝塚の調査にあたった人を加えて、いろいろ調べていたのでしょうか。それにしても時間がかかりましたね。
■明治26年(1893年)になって初めて弥生式土器の名前が使われたらしい。学術雑誌で弥生式土器の名前が使われたのは明治29年(1896年)になってからだそうです。それでも、中間土器(ちゅうかんどき?)、馬来(マレー)式土器、有紋土器、埴瓮(はにべ)土器等々、いろいろな呼び名がつけられており*2、弥生式土器の名前が定着したのは、1912年〜1926年の大正期に入ってからだそうです。なお、埴瓮は、埴(はに)という黄赤色の土で作られた瓶(かめ)だそうです。埴は埴輪などにも用いられたようです*4。
■弥生式土器は、昭和50年(1975年)になって佐原真(まこと)という考古学者の提案により、弥生土器と改められたそうです。最近では、「式」を省くのが一般らしい。
■3月2日、春弥生の頃に発見されたので弥生式土器と呼ばれた…というのはすぐにバレる嘘ですね。多くのかたがご存知のように、文京区弥生で発掘されたからというのが正しいようです。地名に由来するのは間違いないようですが、その正確な位置ははっきりしないらしい。大正12年(1923年)に有坂自身が「正確な地点はわからない」と述べたらしい。町の様子が様変わりしてしまったからだそうです。参考資料*3によれば、5箇所の候補地があるそうです。「弥生式土器発掘ゆかりの地」という石碑は、現東京大学工学部のある場所近くに立っているらしい。
■そういえば、モースの発見した大森貝塚も、どこにあったのかわからなくなってしまい、記念の石碑が2つ建立されるという不思議な事態になったようです*5。のちに古い資料から位置が特定されたそうです。せっかく2000年も前の遺物を発見したのに、100年とか150年前の調査地点が不明になるのでは、困ります。まあ世の中の変化は激しいですから、どんな出来事もちゃんと記録として残しておくべき…という教訓になっているのかな。
◆参考*1:HP「弥生土器 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%9C%9F%E5%99%A8
◇*2HP「考古学者と弥生土器 1884〜1995年論」(奈良大学リポジトリ)
◇*3書籍「日本史こぼれ話 古代・中世」新書初版13〜15頁、笠原一男/児玉幸多編、ISBN4-634-60330-6、山川出版社
◇*4HP「「埴生の宿」の「埴生(はにゅう)」というのはどんな意味? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200610/article_45.html
◇*5HP「大森貝塚をめぐる不思議。大森貝塚は大森にはなかったの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/201208/article_16.html
◇*6HP「文京区 文京区の歴史」
http://www.city.bunkyo.lg.jp/profile_three_minutes_histry.html

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コメント(2件)

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弥生町には何度も行ったことがあり、この弥生式土器の発掘現場の碑というのも観たことがありますが、忠臣蔵と呼ばれていたとは知りませんでした。
袖の部分の模様が似ているという事なんでしょうかね?
ねこのひげ
2014/08/24 07:36
コメントをありがとうございます。

 小生も1度だけ弥生町に行ったことがあります。そのときは竹久夢二の美術館で挿絵などを眺めて帰り、土器の石碑は見ませんでしたけど。

 どうでもいい話ですが…大正・昭和の雑誌の表紙で竹久夢二の作品が使われているものがたくさん置かれていました。その中に1つだけ、横書きの文字で、右から読む文字列と左から読む文字列が混在しているものを見つけて、驚いたのを覚えています。おおげさに言えば次のような感じです。
「第1特集 お弁当にもう一工夫を!」
「工大曜日るきでもに婦主 集特2第」

 昔の人は融通無碍といいますか、じつに自由に表現していたようですね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/08/24 14:39

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