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zoom RSS 上杉謙信の観察眼。暗くなれば寄せ手は必ず退くと見極めた理由は?

<<   作成日時 : 2014/07/26 09:19   >>

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★歴史★
問題:長尾晴景(はるかげ)は長尾景虎(かげとら)の実のお兄さんだそうです。長尾景虎は後の上杉謙信(けんしん)です(このクイズでは以後は上杉謙信と呼びます)。
■兄弟とはいえ21歳も年上です。晴景は永正(えいしょう)6年(1509年)生まれ。上杉謙信は1530年(享禄(きょうろく)3年)生まれとのこと。異母兄弟です。晴景は長男であり、女の子2人と男の子2人を挟んで景虎こと上杉謙信がいたらしい。つまり上杉謙信は少なくとも6番目以降の子供だったようです*2。死産や早世の場合には記録されないこともあった時代です。順番は少し詰まった可能性があるかも。
■天文(てんぶん)16年(1547年)、17歳の上杉謙信は38歳の晴景と不和になってしまいます。当時、越後の国内は不穏であり、いくつか反乱が起きていたらしい。晴景にはなかなかさばけませんでしたが、上杉謙信は見事に反乱をおさめたようです。上杉謙信の評価は高まり、越後の諸将の多くが心を寄せたとのこと。
■これを快く思わない晴景の近臣は、主人に讒言(ざんげん、嘘の密告)し、晴景はこれを信じてしまいました。弟を叩きつぶしてしまおう。晴景は5000の兵を引き連れて居城を出発します。上杉謙信の居城を一気に攻め落とそうとしたらしい。
■上杉謙信方には、知将や猛将が数多くおり、士卒を指揮して激しく防戦したらしい。最初の日の戦いではまるで落ちそうになかったようです。謙信はずっと城の櫓(やぐら、高く視界のいい建物)から敵軍の様子を観察していました。夕方近くなって重臣たちにこのように告げたそうです。「敵は必ず攻撃をやめ、今夜撤収するだろう。そこを追い討ちに討ってでるがいい」。
■重臣たちは反論します。「はるばるやってきているのに城の逆茂木(さかもぎ、防御用の柵)ひとつ破れずにおめおめ引き取りましょうか。敵は城が堅固なので尋常の攻め方では落ちないと見たはずです。仮に引き揚げるとしても、それは偽りであり、我々を城外におびき出し、そこで討ち取る計略でございましょう。うかつに追い討ちをかけては敗北します。おやめください」。
■謙信は落ち着き払って主張します。「百戦錬磨のおまえたちの言葉に耳を貸さないのはよくないのだが、敵は必ず今夜引き取るはずだ。だから、ここはわしの考えにまかせてくれ」。
■17歳のご主人だ。功を焦るのも無理はない。一度怪我をすることも必要なのかもしれない。そう考えた重臣たちは、しぶしぶ命令に従います。
■夜になると上杉謙信の予言どおり、敵は撤収を始めました。上杉謙信は頃合いを見て、「今だ、かかれ」と命じ、自ら軍配を振りかざして城門を開き、先頭切って駆けだして行きます。城兵たちも遅れじと後に続きます。引き揚げる敵は終日の城攻めで疲れ切っていたので、たちまち総崩れとなります。我先にと逃げ去ります。
■謙信は勝ちに乗じて3里〜4里も追撃し、1200余りの敵を討ち取ったとのこと。勝ち鬨(かちどき)を上げて引き返しました。
■重臣たちは勝利の祝いを述べてから、改めて謙信に尋ねます。今夜、敵が撤収することは予測がつきませんでした。殿にはなぜわかったのでしょうか。
■「わしは朝からずっと櫓の上で城外の様子を見ていた。だからわかったのさ」。では、ここで問題です。上杉謙信が、寄せ手は引き揚げると判断した材料とは、次のどれでしょうか?
[い]敵の兵たちの顔色から疲労度を読んだ
[ろ]敵の陣形から撤収の用意が見えた
[は]敵の武将たちの動きから諦めるとわかった
[に]敵が狼煙(のろし)をあげたので撤収すると考えた
[ほ]荷物の動きから引き揚げるはずと思った
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]荷物の動きから引き揚げるはずと思った
説明:
■上杉謙信は、次のような意味のことをいったようです。「敵は昼過ぎになっても小荷駄(こにだ)の用意をしなかった。あんな城、すぐに乗っ取れると思って腰弁当ぐらいしか用意しなかったのだろう。小荷駄がなければ夜営はできない。引き返すしかない。連中は疲労しているし、しかも空腹なはずである。とても戦う気持にはなれないはずだ」。
■小荷駄というのは、「戦争のために必要な兵糧や弾薬、陣地設営道具などを運ぶための人夫・駄馬(もしくはウシ)」などを指すようです。もし城を落とすまで腰を落ち着けて戦おうとするなら、小荷駄隊は必要欠くべからざるものです。でも小荷駄隊が見えない。ということは、いったん引き揚げるしかない…という判断ですね。なかなか鋭い観察力です。
■晴景は、もともと武芸には関心が薄い人だったらしい。上杉謙信の実力を思い知らされて諦めがついたのでしょうか。天文(てんぶん)17年(1548年)、つまり兄弟喧嘩の翌年には家督を上杉謙信に譲ったそうです。
■この話は、「近古武事談(キンコブジダン、山口武成(たけなり)著)」という文久(ぶんきゅう)3年(1863年)に出版された本に記されているそうです*1。300年以上も経過した幕末に記されたというのがやや臭います。
■当時の晴景の居城だった春日山城から上杉謙信の居城だった栃尾城までは100km近くあり、何も持たずに歩いても20時間近くかかる…と現代のgoogleの地図は言っています。重い武器を持って歩くわけですから、戦場にたどり着くまでには最低一泊はしているでしょう。「腰弁当だけ」とか「小荷駄隊がまるでいなかった」というのが事実なのか。疑問の余地はあるかもしれません。
◇*HP「Google マップ」(春日山城跡から栃尾城跡への道筋。徒歩アイコンで徒歩での必要時間がわかります)
https://www.google.co.jp/maps/dir/%E6%A0%83%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E8%B7%A1,+%E3%80%92940-0236+%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%B8%82%E6%A0%83%E5%B0%BE%E7%94%BA/%E3%80%92943-0819+%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E4%B8%8A%E8%B6%8A%E5%B8%82%E4%B8%AD%E5%B1%8B%E6%95%B7%E5%AD%97%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%B1%EF%BC%91%EF%BC%93%EF%BC%95%EF%BC%97%EF%BC%8D%EF%BC%91+%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@37.3115034,138.3220438,10z/data=!3m1!4b1!4m14!4m13!1m5!1m1!1s0x5ff5061d1020d0b9:0x11039a1c389afee5!2m2
◆参考*1:書籍「戦国逸話事典」初版54〜55頁、逸話研究会編、IBSN4-404-01585-2、新人物往来社
◇*2HP「長尾晴景 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%B4%E6%99%AF
◇*3HP「上杉謙信 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
上杉謙信の天災ぶりを示すために作られた逸話なのかもしれませんね。
しかし、武田信玄との戦いにこだわったばかりに、二人とも天下を取れませんでしたね。
まあ、無視するわけにもいかんかったんでしょうけどね。
ねこのひげ
2014/07/28 02:42
コメントをありがとうございます。

 信玄と謙信、2人とも戦さには強かったようですね。信長や家康が恐れたのも無理はありません。
 ご承知のとおり、三方ヶ原の戦いでは、家康は誘いに乗ってコテンパンにやられたと聞きます。
 どこかのHPによれば「徳川家康の生涯にわたる戦の勝ち負けは73戦56敗」だそうです。そういえば対真田(上田城攻防戦)は0勝2敗でしたね、
 局地戦に強いからといって天下を取れるわけではなく、弱いからといって滅亡が待っているわけでもないのかな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/07/28 07:57

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