法皇一行が慌てて逃げ出した相手とはどんな連中なの?

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★歴史★
問題:長徳(ちょうとく)3年4月16日(997年5月24日)、花山法皇(かざんほうおう)の一行が紫野あたりに外出していたらしい。気候のいい時季です。野掛け(のがけ)、今で言うピクニックでもしていたのでしょうか。
■そこへある連中が近づいているという情報が入ります。うろたえた一行は法皇の牛車を全速力で走らせ、近衛通りの屋敷に逃げ帰ったらしい。ちなみにいまの紫野は大徳寺などがあるあたりだそうです。のちに千利休がその三門(さんもん、大小3つの門がある建築物)に木像を置いたとされ、秀吉の不興を買うことになったお寺ですね。北大路通りの北側あたりに広がっています。近衛通りは現在では御所の東側あたりです。もし昔のままなら、花山法皇の逃げた距離は直線距離では3km前後、道のりでは5kmぐらいはあったかもしれません。30分ぐらいはかかったのかな。
■では、花山法皇一行を恐怖に陥れた敵はどんな連中だったのでしょうか?
[い]栄華を誇る藤原道長(みちなが)の私兵たち
[ろ]比叡山延暦寺の僧兵たち
[は]検非違使(けびいし)の役人たち
[に]岩倉あたりを根城にしていた野盗の集団
[ほ]北山あたりを縄張りとしていた野犬の集団
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]検非違使の役人たち
説明:逃げ帰った前の日は賀茂の祭礼だったそうです。いまでいう葵祭かな。ひしめき合う群衆の中でなにがあったのでしょうか。花山法皇の従者たちが参議藤原公任(きんとう)とおなじく参議の藤原斉信(ただのぶ)の車に押し寄せ、牛童(うしわらわ、牛車の牛を牽(ひ)く役目の少年)を捕らえて乱暴し、車にも石を投げつけたとのこと。まぁ、祭りですから喧嘩はつきものですけれど。
■左大臣藤原道長がその件を時の一条天皇に奏上し、検非違使の出動を要請したらしい。検非違使は平安時代の初め、嵯峨天皇のころにもうけられた令外(りょうげ)の官です。律令の令制に規定のない新設の役所らしい。現在の検察庁・警察庁・裁判所等、司法関係の役所が統合されたような役目を負っていたようです。凄い強権ですね。
■検非違使たちは近衛通りの花山法皇の屋敷を包囲したそうです。昨日の下手人の引き渡しを要求します。花山法皇は最初はシカトしていたのかな。ところが、検非違使の手下たちが築地(ついじ、塀)の上に登り、実力行使をする姿勢を見せると驚いて当該の人物たちを差し出したそうです。
■このころ、花山法皇は満29歳ぐらい。文学方面にはたいへん才能のあった人だそうですが、貴族たちが跋扈(ばっこ)する朝廷内での渡世ゲームには長(た)けていなかったようです。永観(えいかん)2年(984年)に即位しますがその2年後、騙されて譲位しています。満16歳ぐらいから2年だけ天皇の地位にいたわけですね。
■逃げ帰り事件の前年には、内大臣藤原伊周(これちか)・権中納言藤原隆家(たかいえ)による誤射事件もありました。花山法皇を自分の恋敵と勘違いした伊周が、隆家に相談します。隆家は花山法皇の車を襲撃し、一説には従者2人を殺して首をちょん切って持ち去ったとか。花山法皇の衣の袖を矢で射抜いたとかいろいろな話が残されているようです。花山法皇はびっくりして誰にもこの件を話さなかったようですが、噂は広がり、伊周と隆家は流罪とされたそうです。長徳の変と呼ばれているらしい。
◆参考*1:書籍「日本史こぼれ話200」新書初版49頁、二木謙一 (ふたき けんいち)著、ISBN4-537-25453-X、日本文芸社
◇*2HP「花山天皇 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87

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この記事へのコメント

ねこのひげ
2014年07月21日 07:07
現在の検非違使たる警官たちがこんなことをしたら大騒ぎでしょうね。
それにしても乱暴なことでありますね。
ねこのひげ様<素町人
2014年07月21日 10:23
コメントをありがとうございます。

 天皇の権力は頼朝ら武士によって奪われた。明治維新でようやくもどった。そんな構図を教わりましたが、平安時代でも貴族たちによって天皇がないがしろにされることは頻繁にあったようですね。
(^^;)

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