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zoom RSS 戦国時代に登場する言葉です。「捨て奸」はどんな意味でしょうか?

<<   作成日時 : 2014/06/11 08:32   >>

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★歴史★
問題:戦国時代に見られたものの名前です。「捨て奸」。いったい何の名前なのでしょうか? 次の中から選んで下さい。
[い]戦法の名前
[ろ]落とし穴の堀りかたの名前
[は]城にある防御設備の名前
[に]火縄銃の部品の名前
[ほ]忍びの者の使いかたの名前
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]戦法の名前
説明:「捨て奸」は「すてがまり」と読むそうです。変な読み方ですね。
■「奸」という漢字は常用漢字表には掲載がありません。漢和辞典「字通」によれば「カン、おかす、みだす、たわける」という字音・字訓があります。「奸犯(カンパン)」という熟語を作ります。「おかす」という意味らしい。昭和の初め頃にいろいろ取り沙汰された「統帥権(トウスイケン)のカンパン」もこれかと思いきや、「干犯」という表記だったらしい。
■他に「君側の奸(くんそくのかん)」という決まり文句でも「奸」の字が使われています。「君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような奸臣(カンシン、悪い家臣・部下)、の意味の表現。『君側』は主君の側(そば)、という意味」とのこと。「奸」はあまりいい意味では使われてないようですね。
■「捨て奸」という作戦を使った人は島津義弘(よしひろ)だそうです。天文(てんぶん)4年(1535年)生まれです。舞台となったのは関ヶ原の戦いです。65歳のときに使った戦法なんですね。
■島津義弘は、もともと西軍につく気持ちはなかったらしい。会津の上杉景勝(かげかつ)を討ちに出かけた徳川家康から「伏見城の鳥居元忠(もとただ)の援軍として城を守るのを手伝ってほしい」と依頼されたそうです。承諾し、1000人(別説もあり)の手下を引き連れて伏見城に赴いたところ、鳥井元忠は、「そんな話は聞いていない」と入城を拒んだらしい。これで頭にきちゃったのか、島津義弘は西軍に加わることにしたそうです*1。
■関ヶ原に参戦はしたものの、義弘は手勢が少なかったためか西軍の中では冷遇されていたらしい。作戦会議でも意見は通らなかったとのこと*1。戦意はかなり低下していたようです。ところが、西軍は例の小早川秀秋(ひであき)の裏切りで敗色濃厚になり、1000人(300人説もあり)の島津軍も孤立してしまい、やばくなってきます。義弘は覚悟を決め、切腹しちゃおうかと捨て鉢になったところ、甥の島津豊久(とよひさ)に押しとどめられます。
■で、気持ちを切り替えて、逃げ出す算段を始めます。いろいろと脱出の方向はありましたが、義弘が選んだのは、正面の敵福島正則(まさのり)の陣地目指して突入し、突破してしまおうという大胆なものでした。普通は敵から遠ざかる方法、安全そうな方向を選ぶのでしょう。けれど、義弘は一か八かの賭けに出たようです。琵琶湖の東、関ヶ原からまっすぐ南、伊勢方面に逃げていこうとしたらしい。普通なら陸伝いにできるだけ西方向に、なるべく地元に近くなるように逃げるんじゃないのかな。
■文字通り命がけの突撃を仕掛けてきた島津勢に対し、福島正則も「これだけ必死の敵軍と戦えばこちらも傷は深くなる」と考えたのでしょうか。中央を突破されてからは無理な追走をしなかったらしい。島津勢は伊勢街道を南下して逃げていきます。
■福島軍は諦めても、松平忠吉(ただよし、家康の4男)とか井伊直政(なおまさ、忠吉の義父)、本多忠勝(ただかつ、徳川四天王・三傑の1人)らは追撃してきたらしい。そこでとられたのが捨て奸と呼ばれる戦法だそうです。「殿(しんがり)の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍を足止めさせる。それが全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」というものらしい*2。
■小部隊では、敵に視認されにくいよう、また命中率をあげるように胡座(あぐら)をかいた姿勢で鉄砲で射撃し、先頭に立って追撃してくる敵の親分らしき人物をまず狙ったようです。次に槍に持ち替えてひるんだ敵に突入するらしい。捨て奸の効果は高く、松平忠吉、井伊直政は重傷を負い、本多忠勝は落馬したとのこと。
■小部隊に選ばれた人は、ほぼ100%戦死するようです。でも時間稼ぎはできる。トカゲの尻尾切りに喩える人もいるらしい。義弘の本隊は伊勢まで逃げのびることができたそうです。
■もちろん犠牲もありました。甥の島津豊久は義弘のふりをして死んでいったらしい。家老の長寿院盛淳(もりあつ)も戦死したようです。彼らの犠牲の上で、義弘は伊勢からさらに大和、堺へと入ります。摂津住吉に逃れていた妻を救出し、仲間と合流して海路、薩摩に戻ったそうです。もといたのが300人なのか1000人なのかはわかりませんが、薩摩に無事戻れたのは80人余りだったらしい。
■関ヶ原のあとで、家康は島津討伐を企てます。島津以外の九州の武将たちは促されて大軍を組織し、薩摩へと進みます。大きな戦いがあるかと思われましたが、義弘が家康に謝罪の使者を送ったこともきっかけとなり、状況が変わります。そもそも、家康と鳥居元忠の連絡不行き届きが西軍への加担のきっかけになっています。家康もあまり強くは出られなかったのかもしれません。薩摩に残っていた島津義久(よしひさ、義弘の兄)は中立を保っていたらしい。いろいろすったもんだはあったようですが、2年ほどの交渉の結果、島津は領地を安堵されます。関ヶ原の戦後処理は終わったようです。
■義弘は隠居して若者たちの教育にあたったりしていたようです。元和(げんな)5年(1619年)に死んだらしい。満83歳で、男性としては現在でもご長寿の部類に入りますね。
◆参考*1:HP「島津義弘 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
◇*2HP「捨て奸 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A5%B8
◇*3HP「関ヶ原の戦い - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E5.B3.B6.E6.B4.A5.E6.B0.8F.E3.81.AE.E5.87.A6.E5.88.86
◇*4HP「戦国時代 (日本) - Wikipedia」(口絵、川中島の戦い)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
薩摩のお家芸である示現流では関ヶ原を忘れるなと叫びながら、庭に立てた木を木刀で殴って修行していたそうです。
それが250年後の幕末につながるわけでありますね。
ねこのひげ
2014/06/15 05:32
コメントをありがとうございます。

薩摩の人は戦さが強かったと聞きます。誰だったか忘れちゃいましたけど、「いつも背水の陣だから」と理由を説明していました。
 たしかに北から攻められたら、逃げ場所がなさそうな感じではありますね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/06/15 12:36

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