町人思案橋・クイズ集

アクセスカウンタ

zoom RSS 幼き日の人質竹千代(後の家康)の奪還劇。演出したのは禅宗の坊さんだったの?

<<   作成日時 : 2014/05/24 14:32   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 2

画像
★歴史★
問題:徳川家康は、三河地方の土豪松平家8代当主松平広忠(ひろただ)の嫡男として生まれたそうです。天文(てんぶん)11年(1542年)12月26日寅の刻とのこと*1。
■昔の人のほとんどは生年月日すらわかりません。著名人でも、下層階級の出身といわれる秀吉はもちろん、戦国の梟雄(きょうゆう)と言われた松永久秀は、永正(えいしょう)7年(1510年)に生まれたともいわれますが、確証はないらしい。Wikipediaでも疑問符付きで紹介されています。関ヶ原で家康に敗れた石田三成は、永禄(えいろく)3年(1560年)生まれと言われますが、何月何日生まれかははっきりしないようです。
■家康の場合は、誕生した時刻まで記録されているようです。当主のお坊ちゃまだからなのかな。あるいは後世の人が勝手に決めたのかもしれません。ちなみに寅の刻は、春分の日や秋分の日ですと午前4時前後です。家康が誕生したのは冬至に近かったようですので、もう少し後になるのでしょう。
■家康の父、三河の松平広忠は、西隣、尾張の織田信秀(のぶひで)に攻められていたそうです。東隣、遠江(とおとうみ)の今川義元に援助を求めると、見返りに跡継ぎの家康を人質として差し出せと要求されたらしい。天文(てんぶん)16年(1547年)に今川義元の治める駿府に出発します。ところが護送の途中、家臣の裏切りにより、織田信秀の元に拉致されます。満4歳と何ヶ月かのころですね。
■天文(てんぶん)18年(1549年)の春に松平広忠が暗殺されたらしい(病死説、一揆による戦死説もあり)*5。その後、人質交換交渉が行なわれ、織田信秀は幼い日の家康を返すことになります。といっても故郷の岡崎に帰れるわけではありません。今度は今川義元の人質になったとのこと。
■満7歳に満たない家康は、母との離別や父の死、環境の変化などにより、大きな心的外傷を受けたことでしょう。でも運命は過酷です。このときからさらに10年以上の人質生活が続きます。桶狭間で今川義元が敗死して初めて独立した武将になれました。10年の間には今川の家臣によるイジメもあったそうで、なかなか大変な時間を過ごしたらしい*1。「鳴くまで待とう」とつぶやきながら辛抱していたのかな。
■ところで、織田信秀の元に拉致されていた家康を今川方に取り戻した人物は、普通の武将ではなかったそうです。では彼はどんな特徴の人物だったのでしょうか?
[い]三河の野武士の親分だった
[ろ]今川家に保護されていた能役者だった
[は]今川家に保護されていた公家だった
[に]庄内川の川守だった
[ほ]臨済宗の禅僧だった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]臨済宗の禅僧だった
説明:この人物は太原雪斎(たいげん せっさい)という人らしい。庵原(いおはら)城の城主と興津横山城の城主の娘のあいだに、明応(めいおう)5年(1496年)に生まれたそうです。どちらの城ももちろん今川の領内にあり、庵原氏も興津氏も今川の重臣だったらしい。
■残念ながら嫡男ではなかったようです。昔の次男以下によくある人生行路で、寺に預けられ、仏教の教育を受けたらしい。最初は地元で、後には京都五山の1つである建仁寺(けんにんじ)、さらに妙心寺(みょうしんじ)に修行したようです。
■秀才としての評判が高かったらしい。地元の寺に帰ったのちの天文(てんぶん)5年(1536年)、今川義元が跡目争いに巻き込まれます。今川義元も建仁寺で得度をした坊さんです。ところが、当主である氏輝(うじてる)や兄である彦五郎が相次いで死んじゃったので還俗し、跡目を継ごうとします。でも父の愛人の子玄光恵探(げんこう えたん)が「俺が継ぐ」と対抗馬に名乗り出て、争いになったようです。花倉の乱と呼ばれているらしい。
■おなじ建仁寺で修行した誼(よしみ)からでしょうか、太原雪斎は今川義元を支持し、跡目相続に援助を惜しまなかったようです。
■結局、恵探君は攻め滅ぼされてしまいます。義元は太原雪斎の協力も得て求心力を高め、駿河・遠江を東海道の強国へと育てていくらしい。太原雪斎は、いくつかの寺での修行中に古今の軍学書も多く学んだそうです。武士としての先天的な血に参謀としての後天的な知識が加わり、有能な軍師になっていったらしい。
■さて、天文(てんぶん)18年(1549年)に松平広忠が暗殺されたとき、家臣団には動揺が走ります。危機を収めるべく、雪斎は岡崎城に今川軍を駐留させます。家臣団に対し、これまでどおり、今川は松平を支持するのでご安心を」と説いたらしい。
■さらに、跡目第1候補である家康(当時は竹千代)を奪回する秘策があると伝えます。その作戦とは、尾張との国境からわずかに三河方面に入った場所にある安祥城(あんしょうじょう)を攻めることです。ここには織田信秀の嫡男信広(のぶひろ)がいます。これを奪還すればいい。
■ただし、信広は生け捕りにすること。そうすれば、竹千代との人質交換を要求できるではないか。なるほど。松平勢は気勢が上がります。よーし、やってやろうじゃないか。モチベーションの高い松平軍の攻撃に安祥城は落ち、計画どおり信広は生け捕りにできたそうです。
■息子が可愛かったのでしょうね。信秀は人質交換に応じます。ただし、嫡男信広は無能な武将として跡目候補から脱落し、以後は次男に脚光が当たっていくようです。その名前は信長というらしい。
■臨済宗の坊さんは、人質だった家康の教師役だったという説もあるそうです。ただしはっきりした証拠はないらしい。天文(てんぶん)19年(1550年)には、今川義元が三河を治めることになったと朝廷に報告しに行ったこともあったようです。このとき、当時の後奈良天皇から紫衣(しえ)を許可されているそうです。紫衣は坊さんとしての最高位を表す服装らしい。江戸時代に入ってから沢庵和尚なども絡んだ紫衣事件が起きていますね*3。また、後奈良天皇は、なぞなぞが好きで、「後奈良天皇御撰名曾(表紙には「なそだて」とあるらしい)」というなぞなぞ集の本を残しているとのこと*4。
■雪斎は弘治(こうじ)元年(1555年)秋に満59歳前後で病死しています。家康は、その後の駿河について、「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執(と)り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と証言しているらしい*2。もし太原雪斎があと5年ほど生きられたら、そしてボケていなかったら、今川義元も信長の奇襲に屈することもなかったかもしれません。
◆参考*1:HP「徳川家康 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
◇*2HP「太原雪斎 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E6%96%8E
◇*3HP「紫衣(しえ)事件で女帝誕生の日。何年ぶりの女性天皇なの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200912/article_28.html
◇*4HP「お金がなくて遺骸がなかなか処理できなかった天皇とはだれ? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/201308/article_12.html
◇*5HP「松平広忠 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%83%E5%BF%A0

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
信長や秀吉、家康を主人公にした小説を読むと今川義元は貴族趣味のぼんくらな殿様みたいに書いてありますが、けっこう苦労をして地位を手に入れたようですね。
ねこのひげ
2014/05/25 11:29
コメントをありがとうございます。

 雪斎も今川義元もライバルの恵探もみんな次男以下で、お寺に行かされていたみたいですね。
 それぞれに苦労したのでしょう。現代のわれわれは、連中に比べれば随分楽をしているんでしょうね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/05/25 22:36

コメントする help

ニックネーム
本 文
幼き日の人質竹千代(後の家康)の奪還劇。演出したのは禅宗の坊さんだったの? 町人思案橋・クイズ集/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる