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zoom RSS 明朝体という書体を普及させた人は誰なの?

<<   作成日時 : 2014/03/12 08:16   >>

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★歴史★
問題:新聞・雑誌・書籍やパソコンでよく使われる書体には、縦の画が太く、横の画が細いやつがあります。明朝体と呼ばれています。端っこに飾りがついています。ゴシック体という飾りけのない文字とともに、標準の書体として広く利用されています(口絵参照)。明朝体は、点画をおろそかにしない楷書を単純化した書体だそうです*3。
■明朝体は、歴史上著名な僧侶が日本で普及させたと言われています。その人物は、次のうちの誰でしょうか?
[い]道元(どうげん)
[ろ]一休(いっきゅう)
[は]沢庵(たくあん)
[に]隠元(いんげん)
[ほ]良寛(りょうかん)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[に]隠元(いんげん)
説明:隠元隆g(りゅうき)は、1592年12月7日(天正(てんしょう)20年11月4日)に福建省で生まれています。福建省は台湾の対岸にあたるらしい。
■得度(とくど)したのはだいぶ遅く29歳のころだったらしい。得度というのは出家することです。俗っぽくいえば、プロの、職業的仏教人になることですね。宗派としては黄檗宗(おうばくしゅう)という禅の一派らしい。
■1637年(寛永(かんえい)14年)といいますから45歳のころでしょうか、黄檗山萬福寺(まんぷくじ)の住持に招請されました。しばらくして辞めたようですが、1646年(正保(しょうほう)3年)に再び住持として赴いたようです。黄檗山もまた福建省にあるようです。
■長崎の唐人寺(とうじんでら、在日中国人のための寺?)崇福寺(そうふくじ)の住持が空席となり、隠元は先に渡来していた興福寺の住職逸然性融(いつねんしょうゆう)に招聘されます。隠元は最初は弟子を遣わします。あいにく船が難破し、その弟子は亡くなってしまいます。
■やむを得ず自ら日本に赴く決意を固め、1654年(承応(しょうおう)3年)に長崎にやってきました。来日時にはすでに60歳を越えていたんですね。そういえば鑑真が来日したのも65歳ぐらいだったと聞きます。
■隠元は、船にインゲン豆を積んで来たようです。鞘(さや)が細長いやつです。バタ炒めして喰うとなかなか旨い。胡麻和えもいいですね。植物検疫には引っかからず、日本に定着したようです。なお、隠元が持ち込んだのは藤豆と呼ばれる鞘がそんなに長くない種であるいう説もあるらしい。
■隠元が持ち込んだもうひとつの文化が明朝体だったようです。明は1644年(寛永(かんえい)21年)に滅んでいます。隠元が日本に来たころには、すでに清の時代が始まっていました。でも当時の人々の脳裏には明朝体が残されていました。さまざまな刷り物の版木などもみんな明朝体だったらしい。
■隠元が監修し、鉄眼道光(てつげんどうこう)という僧が現場監督となって、大蔵経(だいぞうきょう)という仏教経典を彫らせたそうです。全部で4万8275枚もの版木が必要だったらしい。13年かかったといわれます。これらは京都の宇治にある黄檗山萬福寺の宝蔵院におさめられており、現在でも摺ることが可能らしい。
■大蔵経は求めに応じて広く頒布されたとのこと。ここから明朝体の書体が普及することになったようです*1。
■隠元は3年契約で日本にやってきたようですが、周囲の人に引き留められます。将軍家綱に面会し、宇治の萬福寺を開いたとのこと。隠元は自分の故郷の宗教施設の山号寺号をそのままつけたようですね。契約延長の交換条件だったのかな。後水尾(ごみずのお)上皇を初めとする多くの高位の人が帰依したそうです。82歳で日本で亡くなっています。結局、20年ぐらいは在日したのかな。
■なお、後水尾上皇は、例の紫衣事件で幕府と対立し、退位した人です*2。仏教がらみで歴史に登場する人なのかな。
◆参考*1:書籍「日本史こぼれ話近世近代・続編」新書初版144〜146頁、笠原一男/児玉幸多編、 ISBN4-634-60740-9、山川出版社
◇*2HP「紫衣(しえ)事件で女帝誕生の日。何年ぶりの女性天皇なの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200912/article_28.html
◇*3HP「明朝体 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9C%9D%E4%BD%93

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
お久しぶりです。
隠元和尚さん、中国の人だったんですか…。うーん、隠元豆を持って来た人は知っていましたが。日本人だと思っていました。
大蔵経って、そんなに沢山、何が書いてあるんでしょう。
ありがたい感じがします。
ブータ
2014/03/13 21:02
コメントをありがとうございます。

 お久しぶりです。
 Wikipediaの「経典」の項には、「経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた」という説明があります。
 大蔵経は一種の全集みたいなものらしい。いろいろなお経やその注釈、さまざまな立場からの意見などをすべて収載している…のかもしれませんね。宗教にうといので、この見方が正しいのかどうかはわかりませんけど。
 親しい住職などがおられたら、きいてみてください。
(^^;)
ブータ様<素町人
2014/03/13 22:06
経・律・論 で、三蔵というみたいですね。三蔵を知っている和尚さんを、三蔵法師と言うらしい。三蔵法師は、固有名詞ではないそうです。知らなかった。
ブータ
2014/03/13 23:43
隠元さんがインゲン豆を持ってきたのは知っていましたが明朝体までとは知りませんでした。

三蔵法師と名乗る人物がインドまで5,6人は行ったようですね。
ねこのひげ
2014/03/16 06:55
コメントをありがとうございます。

 夏目雅子や宮沢りえや深津絵里などは若いのに三蔵に通じていたのかな。それにしてもみなさん、お綺麗です。
(^^;)
ブータ様<素町人
2014/03/16 09:03
コメントをありがとうございます。

 「三蔵法師」は自称でもいいのかな。なかには二蔵半ぐらいの怪しいやつもいたりして。
 それでも、危険を冒し、かつ高額の費用を負担して天竺まで行くのだとすれば、かなりの坊さんではあるのかな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2014/03/16 09:11

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