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zoom RSS 三烈女というのはどんな「烈しい」女性たちなの?

<<   作成日時 : 2013/11/13 07:49   >>

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★歴史★
問題:つい最近のクイズでもご紹介したとおり、中国には3大悪女という呼び方があるらしい*4。漢の高祖劉邦のカミサンだった呂后(リョコウ)、唐の高宗のカミサンであり、未亡人となっては史上ただ1人の女性皇帝におさまった則天武后(ソクテンブコウ、武則天(ブソクテン)とも)、そして清の咸豊帝(カンポウテイ)のカミサンだった西太后(セイタイゴウ)だそうです。
■3人とも「だるま女」をつくったという噂があります。敵対・反目する宮廷内の女性を捕らえ、手足を切り落とし、時には目をくりぬき、豚とともに餌を与えて飼ったり、酒の瓶にとじこめてゆっくり殺したりしたらしい。事実だとすれば、やることがえげつないですね。
■日本史上にも「三烈女」と呼ばれる女性たちがいたそうです。では、三烈女とは次のどの組み合わせを指すのでしょうか? 参考資料*4の「名数人名事典」に掲載されているものを正解とさせていただきます。
[い]木花開耶姫(このはなさくやひめ)/弟橘媛(おとたちばなひめ)/須勢理毘売命(すせりびめのみこと)
[ろ]磐之媛命(いわのひめのみこと、仁徳天皇の妃)/神功皇后(しんぐうこうごう、仲哀天皇の妃)/光明皇后(こうみょうこうごう、聖武天皇の后)
[は]北条政子(まさこ、源頼朝正室)/阿野廉子(あのやすこ、後醍醐天皇の寵妃)/日野富子(ひのとみこ、足利義政正室)
[に]春日局(3代家光の乳母)/桂昌院(けいしょういん、3代家光の正室・5代綱吉の生母)/天璋院(てんしょういん、13代家定の正室)
[ほ]松尾多勢子(たせこ、女流勤皇家)、大田垣蓮月(れんげつ、女流歌人・陶芸家)、野村望東尼(もとに、歌人・勤皇家)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]松尾多勢子(たせこ、女流勤皇家)、大田垣蓮月(れんげつ、女流歌人)、野村望東尼(もとに、歌人・勤皇家)
説明:3人の烈女はいずれも幕末を生きた人とのこと。
■松尾多勢子は文化(ぶんか)8年(1811年)〜明治27年(1894年)を生きた人らしい。83歳ぐらいで亡くなったわけですから当時としてはご長寿ですね。信濃伊那郡の生まれ。19歳で嫁ぎ、主婦業母親業のかたわら国学・歌道を学んだようです。7人の子持ちだったらしい。勤皇論に感化され、52歳といいますから文久(ぶんきゅう)2年(1862年)ごろに京都に出て、和歌を通じて公卿と人脈をつくったそうです。旦那の許しを得て上京したとのこと。理解のある旦那ですね。
■平田篤胤派の志士たちとまじわり国事を論じたそうです。その勢いなのか、京都等持院足利三代木像梟首(きょうしゅ)事件にかかわります。文久(ぶんきゅう)3年2月22日(1863年4月9日)、足利尊氏・義詮(あきら)・義満の3人の木像がもちだされ、賀茂川の河原に首だけが晒された事件です。武家政権に対する挑戦に見えたらしい。それまで宥和政策をとっていた京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)が強硬姿勢に転換するきっかけとなった事件とのこと。以後、新選組や京都見廻組の取り締まりが強化されるわけですね。
■幕府の追及が強まると長州や故郷に戻り、志士を匿ったりしたらしい。明治元年(1868年)以降は京都に戻り、岩倉家に仕え、「岩倉の周旋老婆」とか「女参事」などと綽名(あだな)されたようです。
■大田垣蓮月は寛政(かんせい)3年(1791年)〜明治8年(1875年)を生きた人らしい。歌人で陶芸家でもあるそうです。武士の娘で、早くに知恩院寺侍大田垣光古(みつふる?)の養女となったそうです。2度結婚したらしい。初めの旦那は放蕩者で別れます。再婚したものの3年で死別。その子供が4人いたそうですが、早死にしたとのこと。計算があわないけど、双子がいたのかな。
■世をはかなんだのか、33 歳のとき出家します。和歌の才能に恵まれ、 蓮月焼きと呼ばれる焼き物に絵や歌を入れて売り、若き富岡鉄斉(てっさい、文人・画家)らを世話したりした。梁川星巌(やながわ せいがん、漢詩人、安政の大獄で捕縛寸前にコレラで病死)や梅田雲浜(うんぴん、儒学者、安政の大獄で獄死)ら志士と交友をもったとのこと。尊王思想を支持していたらしい。歌集「海人の刈藻」、「蓮月集」などが残されているようです。
■野村望東尼は文化(ぶんか)3年(1806年)〜慶応(けいおう)3年(1867年)を生きた人らしい。 江戸時代末期の女流歌人かつ勤皇家ですね。やはり武士、福岡藩士の娘さんらしい。17歳で結婚するも間もなく離縁。24 歳のとき野村貞貫(さだぬき?)と再婚します。3 年後に夫と共に大隈言道(げんどう?)に入門して和歌を学んだそうです。
■ 54 歳のとき夫と死別して出家し、尼になります。旦那の遺志もあって勤王派に協力したらしい。月形洗蔵(せんぞう?)、西郷隆盛らと交わったとのこと。高杉晋作を匿ったこともあるようです。福岡藩が佐幕派におさえられたとき、志士と共に捕らえられて姫島(現大分県?)に流刑に処されます。高杉晋作らに助けられて長州に移ったようです。家集「向陵集」、日記「上京日記」、「姫島日記」、「防州日記」などが残されているとのこと。
■幕末は血しぶきの飛ぶ男臭い時代かとも思われます。目立つ女性は皇女和宮(かずのみや)とか天璋院(てんしょういん)など、きわめて身分の高い人物ばかり…かと思いきや、下々の女性もいろいろ活躍されていたようですね。それぞれに烈しい生き方だったようです。
■なお、烈女という言葉は、古い時代には「再嫁しない女性」という意味だったらしい。貞操を守る、美徳として褒め讃える言葉だったようです。言葉の意味に従えば、大田垣蓮月と野村望東尼は再婚していますので、烈女とは呼べないのかな。でも、自分の意志を持って行動しているのがありありと見て取れます。呼び方はともかくとして、なかなか魅力的な女性たちですね。
◆参考*1:HP「松尾多勢子 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%A4%9A%E5%8B%A2%E5%AD%90
◇*2HP「大田垣蓮月 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%9E%A3%E8%93%AE%E6%9C%88
◇*3HP「野村望東尼 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E6%9C%9B%E6%9D%B1%E5%B0%BC
◇*4HP「パンダが初めて日本を訪問したのはいつの時代なの?」
http://blog.q-q.jp/201310/article_10.html
◇*5書籍「名数人名事典」初版139〜140頁、日外アソシエーツ編、ISBN4-8169-1634-2、紀伊國屋書店

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
いまでも列女と呼べそうな人が多いですけどね。
肉食系女子が増えて草食系男子が増えた気がします。
ねこのひげ
2013/11/21 01:52
コメントをありがとうございます。

 肉食系女子というと、素町人はLiLicoというタレントさんを想像してしまいます。なんとなく胸毛が生えていそうで、裸のお姿を想像すると、笑ってしまいます。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2013/11/21 09:58

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