町人思案橋・クイズ集

アクセスカウンタ

zoom RSS 榎本武揚の誕生日。江戸っ子の快男児は、侍らしい風貌だったの?

<<   作成日時 : 2013/10/05 08:27   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 2

画像
★歴史★
問題:本日10月5日は榎本武揚(たけあき、ぶよう)の誕生日だそうです。天保(てんぽう)7年8月25日、西暦では1836年の今日、江戸の下谷御徒町(したや おかちまち、現台東区)に生まれたそうです。
■父親は箱田姓でした。備後国、現在の広島県福山市の出身とのこと。武揚は長じて榎本武由(たけよし?)の娘みつと結婚して婿養子となり、榎本姓を名乗ることになったようです。
■幼いころは昌平坂学問所で儒学・漢学を学び、ジョン万次郎の私塾で英語を学んだそうです*6。ジョン万次郎は嘉永(かえい)4年(1851年)に帰国後、嘉永(かえい)6年(1853年)には幕府に招聘されます。当時、幕府は黒船への対応を迫られていたんですね。
■江川太郎左衛門(英龍)の配下として軍艦教授所の教授に就任しています。榎本武揚は10代後半だったのでしょうか。貪欲に知識を吸収したようです。安政(あんせい)2年(1855年)に設立された長崎海軍伝習所でも学んでいます。Wikipediaには「伊能忠敬の弟子であった」という記述もみられます(131005現在)。でも伊能忠敬は文化(ぶんか)15年/文政(ぶんせい)元年(1818年)に亡くなっています。直接の面識はなさそうです。孫弟子、あるいは曾孫弟子ぐらいだったのかな。
■ともあれよく勉強する青年だった榎本武揚は、大政奉還のころ、満31歳のころには海軍軍艦頭並から海軍副総裁へと出世しています。後者は奉還後なので徳川家の家職らしい。新政府は幕府の海軍艦隊を引き渡すことを要求してきます。榎本武揚は拒否します。その後、いろいろあって海軍を率いて奥羽越列藩同盟の支援に北上しますが、列藩は相次いで新政府に降伏。とうとう箱舘まで行って新しい共和国、蝦夷共和国を作るも明治2年(1869年)にはついに新政府軍に降伏。東京の監獄にぶちこまれてしまいます。
■明治5年(1872年)の1月、満35歳で特赦によって釈放となり、以後、明治新政府に就職します。まずは縁のある北海道で鉱山の検査巡回を命じられたそうです。明治7年(1874年)には駐露特命全権公使となり、翌年には樺太・千島交換条約を締結したとのこと。
■その後も海軍卿から逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣と6つの内閣で大臣職を歴任し、幕末・明治を駆け抜けた快男児は、明治41年(1908年)に亡くなったようです。満72歳での死です。当時としてはご長寿だったのでしょう。お墓は駒込の吉祥寺にあるとのこと。八百屋お七が寄宿していたことで知られるお寺さんですね。
■では、177年回目のお誕生日を祝しつつ、榎本武揚についての雑学クイズです。下の記述のうち、正しいものはどれでしょうか? (正しいものは無いかもしれませんし、複数かもしれません)
[い]3年ほどの監獄生活で、飢えと病のために人相が変わったと言われる
[ろ]語学が得意で3か国がペラペラだったといわれる
[は]現在にも続く電気学会の初代会長を20年ほどつとめた
[に]日本政府として初めて公害を認定した大臣である
[ほ] 小泉八雲が「日本の侍の顔」と褒めた風貌である
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]と[に]、[ほ]が正しい
説明:
[い]3年ほどの監獄生活で、飢えと病のために人相が変わったと言われる(×)
■箱舘戦争の首謀者たちは、東京丸の内の牢に入れられたそうです。敗軍の将たちは、当然ながら1人ずつ別の房に割り振られました。榎本武揚が牢に入れられると、牢名主が怒鳴りつけます。「娑婆に居た時、どんな悪事をしてきたのか、名を名乗れ」。時代劇みたいですね。
□「俺は箱舘戦争の榎本じゃ」と言うと、罪人一同は驚いて平伏します。以後、榎本武揚は牢名主になり、食事も多く与えられ、獄中ではずいぶん楽をしたとのことです*3。
□余裕があったためでしょうか、榎本武揚は本や紙の差し入れを頼んでいます。暗いので線香の灯りで読んだとのこと。筆や硯も取り寄せ、獄中で「開成雑俎(かいせいざっしょ?)」という本を書いています。油類・石鹸・西洋蝋燭(ろうそく)などの製法を解説したものだそうです。零落した旧幕臣の生活を心配して書いたとのこと。彼らでも仕事ができるようにとの思いから記されたようです。
□当時、犯罪のかかわりあいになった者や連座した者は、犯罪者と別々の牢に入れられ、取り調べで申し立てが一致すると、無罪放免となったようです。榎本武揚は囚人から話を聞き、連累者の房の元部下と外国語で話し、元部下は連累者に話します。別々の房にいる囚人と連累者が取り調べ前に打ち合わせができ、口裏を合わせられたそうです。御陰で釈放された者が少なくないらしい。彼らは長く武揚を慕ったそうです。
[ろ]語学が得意で3か国がペラペラだったといわれる (×)
■榎本武揚は語学の天才だったそうです。その著書「シベリヤ日記」には、オランダ語・ロシア語・ドイツ語・フランス語・英語の五か国語が自由に駆使されているとのこと。ラテン語で書かれた学術書も読めば、蒙古語まで研究していたそうです。母国語すら怪しいものとしては、まるで別世界の人物のように思えます。
□明治5年(1872年)にペルー船籍のマリア・ルス号事件が発生します。船内の清国人を奴隷と認定し、強制的に解放して清国に送り返した出来事です。清国からは感謝されましたが、ペルーは怒りました。謝罪と損害賠償を求めてきます。
□日本としては初めての国際的な裁判を迎えることになりました。第三国のロシア帝国で国際仲裁裁判が開かれます。このとき、榎本武揚が日本側の代表として弁論を行なったそうです。明治8年(1875年)に下されたロシアのアレクサンドル2世の裁定は「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」というものでした。
[は]現在にも続く電気学会の初代会長を20年ほどつとめた(○)
■明治21年(1888年)に電気学会が設立されたとき、会長として担ぎ出されたようです。志田林三郎(りんざぶろう)という人が設立したとのこと。現在でも2万人を越える会員数を持つ、大規模な学会のようです。
□第3回の学会のときに、1人の会員が古道具屋で手に入れたという古いモールス信号の器械を披露したらしい。武揚は同機の傍らに来て熟視し、これは自分がオランダ留学中毎日実修していたものだ、と非常な驚きとともに懐かしげに言ったとのこと。
□文久(ぶんきゅう)2年(1862年)〜慶応(けいおう)3年(1867年)の間、オランダに留学していたそうです。ある機械商の家に下宿していたそうですが、自分の部屋に電信機を備え付けて滞在中にモールス符号による通信を体得してしまったそうです。日本人でモールス信号の電鍵を使いこなしたのはひょっとしたら榎本武揚が初めてなのかもしれません。
[に]日本政府として初めて公害を認定した大臣である(○)
■農商務大臣の時代には、足尾鉱毒事件について私的ながら大臣自ら初めて現地の視察を行なったそうです。また初めて予防工事命令を出したとのこと。それまでの政府の見解では、「企業と地元民の間の私的な事件」という姿勢でした。榎本は、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にします。
□帰郷後、大隈重信らに事件の重要性を説き、鉱毒調査委員会を設置したそうです。以後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけたとのこと。同時に榎本自身は「(鉱毒事件の重大さを)知らずにいたこと」が問題であるとし、引責辞任をしたらしい。
□辞任したのは明治30年(1897年)のようです。残念ながら、その後も対策はなかなか進まなかったようですね。明治34年(1901年)に田中正造(しょうぞう)が明治天皇の馬車の前に飛び出し、「お願いがござります」と直訴することになります*4。
[ほ]小泉八雲が「日本の侍の顔」と褒めた風貌である(○)
■小泉一雄(かずお?)という人の思い出話をまとめた「父小泉八雲」という本があるそうです。その中で、「新聞か雑誌で榎本武揚の写真を見た父(小泉八雲)は、『何ぼよき顔の仁(じん)。ほんとの日本侍の顔』と喜んだ」という記述があるそうです*5。Wikipediaの写真を見ると、ものすごい美男子というわけではありません。でも整った顔立ちであり、意志とか力を感じる風貌ではあります。
□文久(ぶんきゅう)2年(1862年)に留学のためオランダヘ出発した船は、暴風雨に遭って難破します。かろうじて助けられ、バタビヤ(現ジャカルタ)に着きます。武揚らはよほど空腹の日々が続いていたのか、珍しい果物や料理を片端から食べ、下痢をおこしたそうです。頻繁に便所に通ったとのこと。あるオランダの婦人がこれを見て手を打って笑ったらしい。武揚は憤慨し大声で喝を入れます。「人の腹痛を物笑いの種にするとは何事だ、ベランメー」。武揚は御徒町の生まれで、江戸っ子なんですね。つい「ベラボウメ」が出てしまったようです。達者なはずですので、ベランメーを除いた部分は、オランダ語で話したのでしょう。
□この「ベランメー」は、現地にいた西洋人たちの評判になり、連中はしきりに辞書をひいていたそうです。榎本武揚は、白人にも気になる人物、存在感のある人物だったのかもしれません。
◆参考*1:HP「榎本武揚 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
◇*2HP「瘠我慢の説 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%98%A0%E6%88%91%E6%85%A2%E3%81%AE%E8%AA%AC
◇*3書籍「世界人物逸話大事典」初版157頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04- 031900-1、角川書店
◇*4HP「田中正造(しょうぞう)が天皇に直訴した日。社会に身を捧げた男は家庭はかえりみなかったの?」
http://blog.q-q.jp/200912/article_14.html
◇*5書籍「大正人物逸話辞典」初版375頁、森銑三著、東京堂出版
◇*6HP「ジョン万次郎が帰国した日。ゴールド・ラッシュで一山当てようとしたの?」
http://blog.q-q.jp/200902/article_4.html

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
旧幕府艦隊が江戸を脱出した日。率いた榎本武揚の幼名は釜次郎だったの?
●●●●●★歴史★● 問題:明治元年8月19日。西暦では1868年10月4日。榎本武揚が率いた旧江戸幕府の艦船連合は、品川沖を出発して奥羽越列藩同盟の支援に向かったそうです。8艦から成る艦隊には2000人余りが乗っていたらしい。口絵写真は「品川沖を脱走する旧幕府艦隊」とのこと。Wikipediaの榎本武揚の項から拝借しました。 ■残念ながら東北での戦争に敗れ、立て籠もった箱舘(函館)も陥落してしまい、榎本武揚は3年にわたって刑務所に入れられていたようです。明治5年(1872年)に特赦さ... ...続きを見る
町人思案橋・クイズ集
2014/10/04 08:15

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こういう榎本みたいなおっちゃんが、現代に生きていて政治家になったら面白いかもしれませんね。

しかし、明治政府もけっこう寛容でありますね。
元幕臣を警官として雇ったり、官僚にしてみたり、現在の政府もこのぐらいの寛容さは必要でしょうな〜
ねこのひげ
2013/10/06 18:40
コメントをありがとうございます。

 当時の指導層には西洋列強に対する危機感が強かったのかもしれませんね。で、細かいことに拘泥せず、能力のあるものは受け入れたのかな。
 ただ、有能な人物のうちでも、田舎に引っ込んでいた小栗忠順(おぐりただまさ)を捕らえて斬首したのは、狭量な行為ですよね。
 後に、大隈重信は「明治政府のやったことはすべて小栗の真似だ」とまで言ったらしい。姻戚であることを差し引いても、大隈には最高の評価をされていたようです。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2013/10/06 19:14

コメントする help

ニックネーム
本 文
榎本武揚の誕生日。江戸っ子の快男児は、侍らしい風貌だったの? 町人思案橋・クイズ集/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる