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zoom RSS 国連総会でフルシチョフが激昂。怒り狂ったフルシチョフはどんな行動をとったの?

<<   作成日時 : 2013/10/26 09:10   >>

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★歴史★
問題:昭和35年(1960年)、日本では日米新安全保障条約の締結をめぐって大きな騒動が起きていました。いわゆる全学連が政府の方針に反対し、国会議事堂にデモ行進をかけたりしました。新しい安保条約は締結されるのですが、騒動の責任をとって岸内閣は総辞職します。反米のムードも高まり、当時のアイゼンハワー大統領の来日は阻止されました。左翼はおおいに気勢をあげましたね。
■Wikipediaの安保闘争の項によれば、当時のソ連の対日工作部にいた人物の回想として、ソ連から社会党・共産党・総評の各組織には「かなり大きな」金が流れていたそうです(131026現在)。ソ連にとっては日米安保は邪魔物です。お金を出す動機はあります。我が国の左がかった人たちには特別な信念や愛国心があるわけではなさそうです。受け取る動機もあります。残念ながら買収の可能性は否定できません。
■歴史は繰り返すといいます。現在は、中国から沖縄に金が流れている。そんな憶測もあるようです。軍事上の敵であるアメリカの行動を少しでも妨害したいというわけですね。誤った推測であって欲しい。でも、中国にはお金を出す動機があります。いままでの言動を見る限り、沖縄の政治家たちには特別な信念や愛国心はなさそうです。受け取る動機もあります。残念ながら買収の可能性は否定できません。
■話が脇道にそれました。昭和35年(1960年)の10月12日に、国連総会が開かれていたそうです。議場では、ちょっとした珍事があったらしい。フィリピン代表の演説を聴いたソ連の当時の首相、ニキータ・フルシチョフ氏が激昂したそうです。よほど内容が気に入らなかったらしく、怒りまくったらしい。まさに「怒髪天を衝く(つく)」というほどに怒ったのですが、残念ながらフルシチョフの頭は髪の毛がきわめて少なかった。つまりつるっパゲに近い状態でしたので、さほど天を衝けなかったのはお気の毒でした(口絵参照)。
■さて、お怒りのフルシチョフ首相は単に顔や目を赤らめ、声を荒げただけでなく、ある行動に出たそうです。その行動とは次のどれでしょうか?
[い]書類を頭上に放り投げ、あたり一面紙で踏み場もないほどにした
[ろ]大きな声で歌を歌い、フィリピン代表の演説が聞こえないように妨害した
[は]靴を脱いでバンバン机を叩き、威嚇するとともに演説を聴きにくくした
[に]コップの水を演壇に向けて投げ掛けた
[ほ]ソ連代表団全員を引き揚げさせた
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]靴を脱いでバンバン机を叩き、威嚇するとともに演説を聴きにくくした
説明:この日、ソ連代表は「植民地主義非難決議案」を提出し、アメリカの帝国主義を非難したそうです。東西冷戦のまっただ中です。
■フィリピン代表のロレンソ・スムロンという人が、「ソ連の東欧諸国への関与こそ正に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲したらしい。「怒ったフルシチョフは、自分の靴を脱いでこれで机をバンバンと繰り返し叩いてスムロンの演説を妨害した」と参考資料*1にありました。
■スムロンという人は、1905年(明治38年)の生まれ。フィリピン大学で法律を学び、司法試験を首席で合格したそうです。ハーバード・ロー・スクールに留学し、1932年(昭和7年)に修士号を取得したらしい。1946年(昭和21年)に代議院(下院)に当選し、1949年(昭和24年)には元老院議員となったそうです。1972年(昭和47年)にマルコス大統領が全土の戒厳令を出し、スムロン氏は議員の座を奪われたようです。1986年(昭和61年)にマルコスがクーデターで失脚すると、フィリピンの新憲法の制定に携わるようになったとのこと。法曹界・政界の指導者的存在なんですね。
■ニキータ・フルシチョフは、1894年(明治27年)生まれです。1953年(昭和28年)〜1964年(昭和39年)まで、ソ連の最高指導者として君臨しました。4代目です。ちなみに初代はレーニン。次がスターリン。さらにマレンコフという人がごく短期つとめ、次がフルシチョフです。在任中には世界初の人工衛星や宇宙飛行士を生み出し、得意満面の時期もありました。1962年(昭和37年)10月14日〜28日までの14日間、いわゆるキューバ危機の3人の主役の1人でもあります。あと2人は米国大統領ケネディとキューバのカストロ首相ですね。
■フルシチョフに権力が集中しすぎていると危機感を抱いたのか、高級幹部が連帯して抵抗します。東京五輪の年、1964年(昭和39年)に解任されてしまいます。たしかオリンピックの真っ最中の出来事でしたね。後を継いだのはブレジネフだったかな。
■珍事の前の年にはキューバにおけるアメリカの傀儡、バチスタ政権が革命で倒れ、フィデル・カストロが首相に就任しています。カストロはすぐに訪米しますが、アメリカ政府に共産主義者というレッテルを貼られ、冷たくあしらわれて互いに距離を置くようになります。
■フルシチョフも1959年(昭和34年)にソ連の指導者として初めてアメリカを訪問するなど、雪解けムードを演出しました。でもキューバにミサイル基地を作ろうとして結局1962年(昭和37年)のキューバ危機を招き、一触即発、いよいよ核戦争かという瀬戸際まで追い込まれます。ソ連がギリギリで譲歩したために第三次世界大戦は回避されました。
■1961年(昭和36年)にケネディとウィーンで会談したもののベルリンの処理について対立し、ベルリンの壁の構築を指示したそうです。東ベルリンと西ベルリンの間に建設されたわけですね。1989年(平成元年)に破壊されるまで、冷戦の象徴として存在しました。
■フルシチョフは激情家として知られているそうです。Wikipediaによれば、1956年(昭和31年)11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」との暴言を吐いたそうです。なぜ怒り出したのかは知りませんが、大国の指導者の発言としては、なんだか低級ですね。
■ソ連は、昭和26年(1951年)のサンフランシスコ講和条約は調印しなかったようです。フルシチョフが失脚後に記した回想録によれば、日本の戦後の発展を羨み、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」、「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていたとのこと。この回想録はアメリカのタイム社が出版したようですが、原稿の受け渡し、ソ連共産党による検閲など、恐怖と緊張にあふれた物語があったとのこと。詳しくは参考資料*2をご覧ください。
◆参考*1:HP「ロレンソ・スムロン - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%B3
◇*2HP「ニキータ・フルシチョフ - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95
◇*3HP「フィデル・カストロ - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
どうも、ソ連の上に立つ人間は品性下劣な田舎者が多いですね。
こうしてみると今の方はましな方ですね。
ねこのひげ
2013/10/28 01:02
コメントをありがとうございます。

 今のロシアの親分がまともかどうかはわかりませんが、少なくともスターリンのような大規模な粛清はしていないようですね。
(^^;)
 
ねこのひげ様<素町人
2013/10/28 08:27

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