お金がなくて遺骸がなかなか処理できなかった天皇とはだれ?

画像
★歴史★
問題:歴代の天皇の中には権力を集中させ、西洋の絶対君主のような威勢をふるった人もいます。72代目の白河天皇はそうした人の1人かもしれません。「天下三不如意(てんかさんふにょい)」、賀茂河の水、双六の賽(さい)、山法師以外はなんでも思うようにできると言っていたようです。
■奈良の大仏を作らせた聖武天皇もまた大きな権力を握っていたようです。前代未聞の大規模な建設計画です。費用もさることながら、よほどの権力がないと実行はむずかしいでしょう。
■逆に、天皇とはいえ貧乏で、とても日本最高位の人物とは思えない暮らしを送っていた人もいるようです。ある時代の天皇は、亡くなったときに費用のやりくりがつかず、40日以上も遺骸がそのまま置かれたそうです。
■では、この気の毒な天皇は次の誰でしょうか?
[い]後土御門(ごつちみかど)天皇
[ろ]後柏原(ごかしわばら)天皇
[は]後奈良(ごなら)天皇
[に]後白河(ごしらかわ)天皇
[ほ]後醍醐(ごだいご)天皇
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]後土御門(ごつちみかど)天皇
説明:後土御門天皇は、嘉吉(かきつ)2年5月25日に生まれました。西暦では1442年7月3日です。崩御したのが明応(めいおう)9年9月28日。西暦では1500年10月21日だそうです。103代目の天皇だったらしい。
■後土御門天皇が在位されたのは寛正(かんしょう)5年(1464年)から亡くなるまでです。在位36年ぐらいかな。なかなか長いですね。そのあいだに、文正(ぶんしょう)・応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)・長享(ちょうきょう)・延徳(えんとく)・明応と元号がかわりました。
■気の毒な天皇が生まれたころには6代将軍足利義教(よしのり)が威張っていたようです。でもすぐに例の嘉吉の乱で赤松満祐(まんゆう、みつすけ)に殺されてしまいます*4。その後、7代将軍義勝(よしかつ)、8代将軍義政(よしまさ)、9代将軍義尚(よしひさ)、10代将軍義材(よしき、義稙(よしたね))、11代将軍義澄(よしずみ)と室町幕府の将軍が変遷していきました。
■応仁の乱の頃の天皇とは運が悪いですね。京都は荒れ放題だったようです。地方の皇室領も武力で奪い取られてしまいます。室町幕府そのものが経営難でしたから、天皇家にまでお金がまわりません。
■戦火を逃れ、御所を離れて足利義政の室町第(むろまちだい、別名花の御所)・小川第、北小路第、日野政資(まさすけ)第などを転々としたそうです。天皇なのに居候人生なんですね。不運の末に亡くなります。なお、第は聚楽第(じゅらくだい、秀吉の設けた屋敷)などに使われるとおり、「立派な家、邸宅」という意味の接尾語らしい。紫宸殿(ししんでん)・清涼殿(せいりょうでん)という場合の殿や田中邸・鈴木邸という場合の邸に似ています。
■後土御門天皇は、Wikipediaの記述によると、「葬儀の費用もなく、40日も御所に遺体がおかれたままだった」とのこと。近衛政家(まさいえ、個人名)という貴族の「後法興院記(ごほうこういんき)」という日記があるそうです。明応9年11月11日(1500年12月2日)のくだりに、「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されているらしい。
■江戸時代に入ってから記された「続本朝通鑑(ぞくほんちょうつがん?)という本には、「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉」という哀しくも薄気味悪い状態が記されているようです。「玉体腐損、而(それにくわえて)蟲(むし)湧出(ゆうしゅつ、わきでる)」がホントなら、さぞ困ったでしょうね。おそらくこの場合の蟲(虫)はウジムシ君たちを指すのでしょう。
■なお、[ろ]の後柏原天皇は後土御門天皇の息子さんで後継者だそうです。やはり貧乏に苦しめられます。即位の大礼ができません。践祚(せんそ、天皇位の継承)後21年も経ってから、ようやく即位礼を行なうことができたらしい。
■[は]の後奈良天皇は後柏原天皇の息子さんで後継者だそうです。このかたも貧乏に苦しめられます。史上いちばん皇室が衰微した時代ともいわれているらしい。雪見の宴を開こうとしたのに酒がなく、単なる雪見に終わったというせつない逸話が残されているそうです。お父さんの後柏原天皇に似て、即位礼も践祚から10年目だったらしい。
■後奈良天皇は、天皇なのに内職をしていたという話も伝わります。宸筆(しんぴつ)と呼ばれる天皇直筆の書を売って副収入としていたらしい。貧しくても清廉で、寄付は受け取ってもワイロは受け取らなかったともされているらしい。貧乏も労働もけっして恥ではありません。現代はともかく、当時はワイロも恥ではなかったかもしれませんが。
■後奈良天皇は、172のなぞなぞを集めた本、「後奈良天皇御撰名曾(名曾=なぞ?)」などを残しています。貧乏でなぞなぞが好きな人です。話があいそうだな。ちなみに「後奈良天皇御撰名曾」は後世の人がつけた書名であり、残されている本の表題は「なそだて(ママ)」というらしい*6。ひらがなの題名は宸筆ともいわれています。20歳過ぎたころ、まだ皇太子の時代に書かれたものらしい。若いのに滑稽味を解するとはなかなかの人物ですね。なお、室町時代には謎々を「なぞだて」とも呼んでいたようです。表題では「なそ」と濁点が抜けています。その理由はよくわかりません。表紙の文字ですから、誤字ではなさそうですが。
■後奈良天皇の頃の話として、三条大橋の上から内侍所(ないしどころ)の灯火が見えたそうです。内侍所は、八咫鏡(やたのかがみ)の安置所であり、内侍という女官が勤務している場所だそうです。御所の塀が壊れているのに修理もできなかったらしい。国の儀式や公式行事を行なう紫宸殿の左近の橘の近辺に物売りが出ていたという話もあるとのこと。
■三条大橋のたもとに正座して皇居を遙拝する高山彦九郎(ひこくろう)がこの当時生きていたら、「あれっ、なんか皇居の中で人が動いているような気がするな。俺の目がおかしいのかな」なんて独り言を言ったかもしれませんね*5。
◆参考*1:HP「後土御門天皇 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
◇*2HP「後柏原天皇 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87
◇*3HP「後奈良天皇 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87
◇*4HP「将軍暗殺劇の主役赤松満祐。何が赤松を犯行に駆り立てたの?」
http://blog.q-q.jp/201102/article_19.html
◇*5HP「京都御所を遙拝する高山彦九郎。彼を育て上げた母についての真実は?」
http://blog.q-q.jp/201307/article_6.html
◇*6:書籍「新版ことば遊び辞典」5版954~955頁、鈴木棠三(とうぞう)編、東京堂出版

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

ねこのひげ
2013年08月22日 18:54
天皇に残されていたのが地位というか官位を与えるということのようですね。
他の武将たちはありがたがっていたようですが、織田信長は、こんなものいらん!蹴飛ばし、つに徳川幕府によって官位を与えるときは徳川幕府の許可を得なければならない事になり、ついに最後の砦も消えてしまったようですが・・・・
ねこのひげ様<素町人
2013年08月23日 06:56
コメントをありがとうございます。

 官位の最高位は正一位だそうですが、鎌倉時代の初期に後鳥羽天皇が伏見稲荷に正一位を与えてしまったそうです。
 以後、徐々に末社にいたるまで正一位を名乗りはじめ、ついには稲荷の代名詞として正一位が使われたとか。
 織田信長が「こんなものいらん」というのもわかりますね。
(^^;)

この記事へのトラックバック