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zoom RSS 「鯱鉾(しゃちほこ)を横目で睨(にら)み、水道の水を産湯につかった」お兄さん。いつごろの人なの?

<<   作成日時 : 2013/03/09 08:46   >>

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★歴史★
問題:江戸時代の人の話です。
■ 「金の鯱鉾を横目で睨んで、水道の水を産湯に遣って、オギャーと生まれたおあにいさんだ」。そんな啖呵を切る人がいたとします。では、この人はいつごろ生まれた人なのでしょうか? 「知って合点江戸ことば」という書籍の解答を正解とします*2。
[い]1600年代前半
[ろ]1600年代後半
[は]1700年代前半
[に]1700年代後半
[ほ]1800年代前半
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]1600年代後半、あるいは[い]1600年代前半
説明:言葉づかいからして、この人は他の地方の人ではありません。ほかならぬ江戸に生まれた江戸っ子のように見えます。
■もしそうだとすると金の鯱鉾は江戸城天守閣の鯱鉾です。一般に金の鯱鉾といえば名古屋城のものがよく知られています。でも江戸城の天守閣の鯱鉾は、もっと立派だったらしい。まぁ、名古屋城は支店、江戸城は本店ですから当たり前かな。3代将軍である家光氏が全盛期江戸幕府の全財力を傾けて作ったようです。それはそれは立派だったのでしょう。
■江戸城の天守閣は約60mもの高さがあったらしい。東大寺大仏殿をしのぐ高さだったそうです。再建された現在の大阪城が55m弱だそうです。当時は天下一の高層建築だったようです。寛永(かんえい)15年(1638年)に完成したといわれています。
■地震や台風に強い層塔型の改良版と呼ばれる建物でした。でもやはり木造建築です。火事にはあまり強くありません。もちろん土壁は厚くしてありますし、屋根は銅瓦で葺き、防火対策も怠っていたわけではありません。でも明暦の大火には勝てませんでした。完成からわずかに20年ほどしか経過していない明暦(めいれき)3年(1657年)の早春、いわゆる振り袖火事・丸山火事とも呼ばれる大火が発生し、外堀の内側はほぼ焼き尽くされたといわれます。このとき、江戸城の天守閣も焼失しました。以後、江戸城に金の鯱鉾が輝いたことはないそうです。
■火事の時、4代将軍家綱はどこに避難したのでしょうね。満15歳ぐらいにはなっていましたから、大奥の女性たちよりは素早く逃げられたのかな。
■いっぽう、水道のほうは玉川上水と神田上水がありました。玉川上水だとすると承応(しょうおう)3年(1654年)に完成しているそうです。参考資料*2では玉川上水説をとっています。ということは、水道の水で産湯をつかったおあにいさんは、承応(しょうおう)3年(1654年)から明暦(めいれき)3年(1657年)の3年の間に産声をあげたはずですね。答えは[ろ]1600年代後半になります。
■もし、「水道の水」が神田上水のものだとすると、もう少し長い期間が該当することになりそうです。神田上水の竣工は特定されていませんが、現在では寛永(かんえい)年間、1624年から1644年のあいだと見られています*3。寛永(かんえい)15年(1638年)に江戸城天守閣が完工しているとすれば、おあにいさんは[い]の1600年代前半に生まれている可能性もあるようです。
◆参考*1:書籍「痛快ケンチク雑学王」初版98〜99頁、建築うんちく隊、ISBN4-395-00781-3、彰国社
◇*2書籍「知って合点江戸ことば」新書初版32〜35頁、大野敏明著、ISBN4-16-660145-8、文藝春秋
◇*3HP「神田上水 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E4%B8%8A%E6%B0%B4

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
家光さんは、江戸城だけでなく、日光東照宮にも膨大な金をつぎ込んだようで、さすがの徳川幕府の金蔵も底をついたとか。
おかげで、後の将軍たちは金策にあえぐことになったそうでありますね。

長屋の井戸が井戸ではなく、水道の水を貯めておく池の様なものだと知った時は驚きました。
ねこのひげ
2013/03/10 04:08
コメントをありがとうございます。

 下町の長屋の井戸は水道の水を貯めておいたようですね。元々埋め立て地だったり、海抜の低い土地で、掘ってもいい地下水は得られなかったようです。

 谷根千あたりですと、ホントの井戸水が汲めたようですね。現在は下町、でも当時の人にしてみれば、郊外という位置づけの地域なのでしょうけれど。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2013/03/10 11:37
谷中は江戸時代は谷中村と呼ばれていて、江戸の郊外であったようで、商家のご隠居さんの隠居所が農家に挟まれて立っていたそうです。
渋谷も渋谷村と呼ばれていたようですし、いまの東京スカイツリーあたりも小梅村と呼ばれていたそうです。
江戸の古地図を手に入れましたが、いまの東京よりかなり小さかったようですね。
ねこのひげ
2013/03/11 07:37
コメントをありがとうございます。

 なにしろ「本郷のかねやす迄」が江戸の市街地だそうですから、その先はみんな郊外なのでしょうね。

 人口が100万人。当時世界一の大都市だったそうですが、それでも現在の京都よりもさらに小さい町です。京都市は落語の「愛宕山」などでも知られるように、女性でも歩いて横断できます。
 現在の東京を知る人たちから見れば、江戸は、健脚不要のかなり小規模な町だったのでしょうね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2013/03/11 09:34
ちょっと苦言♪

安祥城(安城市)〜松平清康(祖父)

岡崎城〜松平広忠(父親)

江戸城〜徳川家康

sadakun_d
2013/03/20 20:37

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