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zoom RSS 日本一恥ずかしい建物、鹿鳴館の門はどうなっていたの?

<<   作成日時 : 2013/03/27 07:53   >>

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★歴史★
問題:明治初年の欧化政策というのはなにか赤面したくなるような馬鹿な政策ですね。日本の文物・制度・風俗・習慣をヨーロッパ風にして欧米諸国に日本が近代化した事実を認めてもらおうとして採った政策だそうです。
■なかには文部大臣森有礼(もりありのり)のように日本語をやめて英語で暮らそうじゃないかなどと言い出す人まで出てきたようです。敗戦後にも文学者志賀直哉(なおや)のように日本語をやめてフランス語で暮らそうと言い出した人がいるらしい。どちらもあまり賢い人物とは思えません。志賀直哉は殺されませんでしたが、森有礼は右翼に暗殺されたそうです。
■欧化政策の象徴といわれるのが鹿鳴館だそうです。徹底的に西洋風に作られたらしい。「フレンチ・ルネサンス系のスタイル」だそうです。細部にはイスラム風装飾を施したらしい。最大2000人ぐらいが収容できる大きい建物だったそうです。ダンスホールは100坪ぐらいあったらしい。10m×33mぐらいあったのかな。日本人はほとんど西洋風の社交ダンスなどできないのに、無理をして踊ったらしい。滑稽なありさまだったようです。鹿鳴館は西欧の失笑は買ったでしょうが、尊敬は受けないでしょうね。
■鹿鳴館を造ったのは外務卿だった井上馨(かおる)だそうです。明治13年(1880年)に工事が始まり、3年後の明治16年(1883年)に完成したらしい。千代田区内幸町、いまの帝国ホテルの近所だそうです。以後しばらくは鹿鳴館時代と呼ばれるそうです。
■井上馨が外国人判事の任用などをもりこんだ新条約を検討していることがわかると、欧化政策に対する風当たりが強まります。明治20年(1887年)には外務卿を辞任したらしい。この時点で鹿鳴館外交は終わったようです。
■では鹿鳴館についてのクイズです。建物は西洋風だった鹿鳴館ですが、その門は何風になっていたのでしょうか? 次の中から選んでください。
[い]凱旋門風の石造りの背の高い門。門扉はなく開放されていた
[ろ]青銅製で彫刻を施されたいかにも洋館の門扉らしいもの
[は]門柱が煉瓦造りで鉄製の門扉を設けただけの妙に質素なもの
[に]純和風だった
[ほ]門らしい門はなかった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[に]純和風だった
説明:鹿鳴館を設計したのは御雇い外国人であるジョサイア・コンドルという人だそうです。この人の進言によるものか、それとも明治政府の意向によるものか。あるいは予算の関係なのか。門は和風だったらしい。
■それも新たに作ったのではなく、島津家江戸上屋敷の両番所付き長屋門だったとのこと。つまりは流用ですね。鹿鳴館は内幸町にあった島津家の土地に建てられたようです。
■両番所付き長屋門というのはかなり格式の高い門らしい。大型のものだそうです。門の両側に警備の人が詰める番所が設置されているようです。島津家江戸上屋敷の両番所付き長屋門は、のちに国宝に指定されますが、昭和20年(1945年)に戦災にあって焼失したとのこと。残念でした。
■ジョサイア・コンドルは、明治政府によって招かれたお雇い外国人です。彼の仕事は純欧風建築の伝道だったらしい。コンドル氏は同時に日本文化への深い理解者だったようです。日本人を妻とし、最期は日本で没したとのこと。幕末期から明治初期の鬼才河鍋暁斎(ぎょうさい)に入門して日本画を習っていたことも知られています。
■参考資料*3には次のように記されていました。「日本が歩むべき『これから』を考えるとき、何から何まで『純洋風』で邁進することのむなしさを彼は感じていたのではないか。鹿鳴館の庭が和洋折衷でつくられたのも、そうした配慮ではなかろうか」。
■鹿鳴館は、門は和風、庭は和風と洋風の折衷、建物は洋風という形になったようです。純和風の門から垣間見える鹿鳴館の建物の写真はなかなか珍奇な雰囲気になっています*3。
◆参考*1:HP「欧化主義 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%8C%96%E6%94%BF%E7%AD%96
◇*2HP「鹿鳴館 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8
◇*3書籍「痛快ケンチク雑学王」初版104〜105頁、建築うんちく隊、ISBN4-395-00781-3、彰国社

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
日常、英語…にフランス語か…。多分無理でしょうね。話せたら、そりゃいいですけどね。コンドルは、帝国ホテルの設計もしていましたよね。日本好きだったんですね。
ブータ
2013/03/27 21:45
古川庭園も、コンドルの設計で、庭にはバラ園だけでなく日本庭園もありますね。
先日、なんでも鑑定団で川鍋暁斎の絵を取り上げたときに、コンドルが描いたという川鍋暁斎の姿絵が紹介されましたが、なかなかうまかったですね。

海外の人間と交渉するためには、英語フランス語は必修で、明治初期の軍人はフランス語を強制的に習わされていたようで、少なくとも現代の政治家や役人や自衛官は必修にすべきでしょう。
ねこのひげ
2013/03/28 03:56
あ、帝国ホテルの設計は、フランク・ロイド・ライトでしたね。間違ってしまいました。訂正。
ブータ
2013/03/28 06:24
コメントをありがとうございます。

 ライトは、妻と子供、弟子など7人を殺されるという不幸な出来事に遭遇した人だそうですね。加害者は発狂した使用人で当人も服毒自殺したとか。

 ライト本人は仕事の現場に行っていて難を逃れたとのこと。ライトが帝国ホテルの仕事を受けたのは、事件の後だったとWikipediaに書いてありました。なかなか壮絶な人生を送った人物のようです。
(^^;)
ブータ様<素町人
2013/03/28 18:45
コメントをありがとうございます。

 コンドルの描いた暁斎の姿は観ました。たしか、背中を丸めて作業をしていましたね。いかにも職人風の様子でした。

 トイレに掛けるカレンダーの図柄に、ある年、暁斎の作品が使われていました。6種類ほどありましたが、暁斎の絵は飽きがこなかったですね。いわゆる景観写真では、月がかわって3日目ぐらいにはもう飽きるものですけど。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2013/03/28 18:51
「日本史」では日米修好通商条約(不平等条約)をクリアしたいがため欧化政策(鹿鳴館)。その条約締結は外国奉行(外務省)とハリス。実は岩瀬忠震(愛知県新城市)さんが締結
sadakun_d
2013/05/01 06:51
幕末(1868)以前から海外視察団が頻繁でオランダ語(鎖国中はメイン)以外に英語を学ぶ幕臣たち(今の一ツ橋大) フランス語は同じように幕臣が横浜仏語学校(今の横須賀自衛隊)で学んでいます
sadakun_d
2013/05/01 06:55
 コメントをありがとうございます。

 岩瀬忠震(ただなり)氏の写真とおぼしきものがネットにありました。幕府の外務関係の幹部連中との集合写真です。
 150年以上前の写真らしく、不鮮明ではあります。説明文どおりにこれが岩瀬氏の姿とすれば、それなりに威厳らしきものは感じられます。
⇒http://asiabaku9.exblog.jp/6811553/
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2013/05/02 07:54

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