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zoom RSS 大化の改新のクーデター後の蘇我氏。完全に滅亡してしまったの?

<<   作成日時 : 2013/02/27 07:09   >>

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★歴史★
問題:日本の歴史上、一二を争うほどによく記憶されている年号は645年でしょう。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって蘇我入鹿(いるか)が暗殺され、その父蝦夷(えみし)が自殺した乙巳の変(いっしのへん/おっしのへん)が起きた年ですね。
■社長は殺されちゃうし、実父である会長も世をはかなんで自ら命を絶つ。自宅に火が放たれ、同族企業の蘇我氏としてはとんだ災難でした。ところで、この後、蘇我という貴族の一門はどうなったのでしょうか? 下の文の中で正しい説明に近いものを選んでください。(近い説明は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]傍流は残っていたものの乙巳の変から10年も経たないうちに根絶やしにされた
[ろ]残党は乙巳の変の翌年の大化の改新で政権の中枢に取り立てられた
[は]天智天皇(中大兄皇子)の薨去後に起きた壬申の乱(じんしんのらん)で負け側についてしまい、勢いを完全に失ってしまった
[に]奈良時代に入る直前、天然痘の大流行で血筋が絶えてしまった
[ほ]姓の表記を曾我に変えた。日本三大仇討ちのひとつ、富士の巻き狩りで父の仇工藤祐経(すけつね)を討った曾我十郎・五郎の兄弟は末裔である
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]残党は乙巳の変の翌年の大化の改新で政権の中枢に取り立てられたと、[は]天智天皇(中大兄皇子)の薨去後に起きた壬申の乱(じんしんのらん)で負け側についてしまい、勢いを完全に失ってしまった…が正しい
説明:中大兄皇子が乙巳の変を起こすさい、最大の支援者は蘇我石川麻呂(いしかわまろ)だったそうです。石川麻呂は蝦夷の甥にあたる人物らしい。
■暗殺の現場では、蘇我石川麻呂は、「三韓朝貢」の上表文を読み上げていたそうです。その途中で暗殺劇が起こる手はずだったらしい。でも、読み終わりそうになっても何事も起こりません。石川麻呂は震えが来たらしい。入鹿から、なぜ震えているのか怪しがられたようです。その直後に流血劇が起きたのでしょうね。口絵は、Wikipediaに掲載されていた惨劇の写真の一部分です。左上あたりに蘇我入鹿の首が飛んでいます*3。
■石川麻呂は、大化改新で右大臣となります。政府の中枢に入ったわけですね。のちに、中大兄皇子に讒言(ざんげん)する者があり、この一族はことごとく滅ぼされたとのこと。
■石川麻呂の弟・蘇我赤兄(あかえ)も中大兄皇子の信任を得ていたらしい。有間皇子(ありまのみこ)に近づき、政府を転覆するよう唆(そそのか)したそうです。それにのってくると中大兄皇子に通報し、刑死させます。このとき有間皇子は満20歳にもなっていなかったらしい。そもそもホントに政府転覆計画に乗ったのかどうかもわからないらしい*2。
■それはともかく、蘇我赤兄はのちに左大臣にすえられたとのこと。その弟・蘇我果安(はたやす)も近江朝の重臣となります。ところが671年に天智天皇は薨去してしまいます。その息子の大友皇子と中大兄皇子の弟である大海人皇子が対立し、壬申の乱が起こります。蘇我氏は大友皇子側につき、子ともども処刑されてしまったらしい。有力氏族だった蘇我氏ですが、以後は歴史の表面にあらわれなくなります。
■関ヶ原の戦いで西側についた大名とか、冬の陣・夏の陣で豊臣方についた大名は滅亡したり領地を大きく減らされたりしています。壬申の乱でどちらに味方するかも、おなじぐらいに大切な選択だったのでしょうね。
◆参考*1:書籍「歴史のその後」初版14〜16頁、担当著者宮本義己、ISBN978-4-404-03480-9、新人物往来社
◇*2HP「旅の食事の様子を和歌にした昔の若きプリンスは、どんな運命をたどった?」
http://blog.q-q.jp/200602/article_96.html
◇*3HP「大化の改新 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
入鹿や蝦夷という名前は、異民族に対する蔑称なので、それを自分の名前に付けるのはおかしいから、これは勝った方が、貶めるためにつけたのではないかという説を書いている人がいましたね。
蘇我氏は、日本人ではなく、半島か中国大陸からきた人間ではないか?とも書いてありました。
しかし、どちらにしろ権力争いはこのころからすさまじく延々と続いているんですな〜
ねこのひげ
2013/02/28 04:36
コメントをありがとうございます。

 蘇我氏が外来の人であるという意見、あるいは外来の人たちと太いつながりをもった一族だったという意見は、あちらこちらに記されていますね。
 それが事実かどうかは別としても、少なからぬ渡来人が当時の日本で活躍していたと推測されているようです。

 以前にも触れましたけれど、日本史上で唯一明確に暗殺とわかっている天皇の死は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という人物によってもたらされたらしい。被害者は崇峻天皇という人とのこと。西暦592年12月12日に殺されたらしい。

 東漢直駒は渡来人であることが明らかなんだそうです。暗殺を依頼したのが、蘇我馬子であり、これは蝦夷の父、入鹿の祖父だそうです。
 事後、東漢直駒は馬子によって殺されます。なかなか面白いドラマになっているようですね。
→「日本史上で唯ひとり。暗殺された天皇とは誰なの?」
http://blog.q-q.jp/200609/article_86.html
 
ねこのひげ様<素町人
2013/02/28 07:01

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