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zoom RSS 1年先の夜食の差し入れ担当まで決まっていたという江戸のワイロ権力者はだれ?

<<   作成日時 : 2013/01/26 11:31   >>

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★歴史★
問題:江戸時代の話です。将軍に近い権力のある人物は、残業時の夜食を差し入れられるのを喜んだそうです。大名たちは競って夜食を贈りますが、当人は、いやこんなには食べられない。私の腹は1つだといったらしい。で、大名達は一種の談合をしたようです。その人物の残業日程は決まっています。先々の夜食の差し入れ担当をみんなで割り振っていったらしい。ウソかホントか、1年先の夜食担当まで決まっていたといわれます。
■この人物は、官位でいえば少将だったらしい。で、夜食の少将という仇名がついたらしい。では江戸城内で夜食の少将と呼ばれていた人物とは次のだれでしょうか?
[い]酒井忠清(ただきよ、大老)
[ろ]柳沢吉保(よしやす、側用人)
[は]間部詮房(あきふさ、側用人)
[に]田沼意次(おきつぐ、側用人・老中)
[ほ]井伊直弼(なおすけ、大老)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]柳沢吉保(よしやす)
説明:延宝(えんぽう)8年(1680年)、館林藩主の徳川綱吉が5代目将軍として江戸城に入ります。館林藩の藩士で綱吉の小姓だった柳沢吉保も一緒に江戸に入り、幕政に参加することになります。満22歳前後です。
■元禄(げんろく)元年(1688年)には新設された側用人(そばようにん)という役職に就任し、1万2000石の禄高になります。大名に出世したらしい。満30歳ぐらいです。
■綱吉の寵臣だったためでしょう。各大名はやたらと柳沢吉保に贈り物をしたようです。中でも肥後熊本藩の藩主細川綱利(つなとし)という人は足繁く柳沢吉保邸に通ったらしい。
■ある日、「せっかくご訪問いただいたのですが、本日は江戸城で宿直の番に当たっておりまして」と吉保にいわれたそうです。多忙で時間がとれないということなのかな。細川綱利氏、夕方になると、これを柳沢様にと、お金のかかった夜食を届けたそうです。柳沢吉保はたいへん喜んだらしい。綱利に礼をいいます。
■この話が他の大名たちの耳に入ります。柳沢様が宿直の日はいつだとみんなが調べはじめ、一種の夜食差し入れ競争が始まります。で、談合があって夜食の割り当てが決まったというのですが。
■柳沢吉保は、ワイロは受け取りましたが、それなりにお返しもした人だそうです。たとえば細川綱利は江戸城の修理工事の割り当て時にたいへん優遇してもらったらしい。ご承知のように大きな工事を割り振られて、たいへん出費をしなければならなかった藩もあります。たとえば薩摩藩は、18世紀後半に揖斐川・長良川・木曽川の治水工事にかりだされます。数十万両の出費をしいられたともいわれます。総奉行平田靱負(ゆきえ)は、幕府側担当者の意地悪に耐え、工事の完成を見届けたところで切腹していると聞きます。彼だけでなく、複数の関係者が幕府に憤慨してなのか、腹を切ったともいわれます。薩摩藩はワイロが少なかったのかな。
■肥後熊本藩はその点世渡り上手です。柳沢吉保への気遣いで、実質的には工事の支出はゼロだったらしい。仮にワイロに1000両を使ったとしても、元は十分にとれているわけですね。
■柳沢吉保は、綱吉が亡くなったあとに幕政から手を引きます。権力は失いましたが、あまり悪口は言われなかったらしい。田沼意次の場合には、権力から滑り落ちたらすぐにお取りつぶしになっています。ところが柳沢吉保は、長男の代もお国替えはありましたが、おなじ15万石の大名でした(甲州藩→大和国郡山藩)。4男(越後国黒川藩)と5男(越後国三日市藩)も1万石ではありましたが大名に取り立てられています。しかも明治維新まで3つの藩は続いたそうです。収賄はするけれど、請託にも一所懸命こたえる。この姿勢が江戸時代には受けたのかな。
◆参考*1: 書籍「江戸のワイロ」初版45〜48頁、童門冬二(どうもん ふゆじ)著、ISBN4-89036-887-6、文藝春秋
◇*2HP「柳沢吉保 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9D

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
夜食って、何が出たんだろう?まだ、ラーメンは無いね。
ブータ
2013/01/26 16:21
江戸時代は、賄賂というか、仕事をもらうのに贈り物をするは当たり前だったようで、田沼意次などは「みんな貰っているのに、なんでわしばかり悪く言われるのか?」と怒っていた書き物が出てきたそうですけどね。
よほど、派手だったんですかね?

しかし、夜食・・気になりますね。
豪華だったんでしょうね。

田沼の後の松平定信は、質素な食事と言いながら、お米は最高級品だし、おかずは紀州の極上の梅などだったそうで、そのことに本人は気が付いてなかったそうです。
ねこのひげ
2013/01/27 06:51
コメントをありがとうございます。

 伝え聞くところによれば、柳沢吉保の同時代人である水戸光圀、いわゆる黄門様が、日本で最初にラーメンを食べた人かもしれないそうです。

 ラーメンは当時最先端の食べ物だったらしい。ラーメンが差し入れられたら、その大名は柳沢氏の覚えがめでたいのかもしれませんね。
(^^;)
ブータ様<素町人
2013/01/27 09:58
コメントをありがとうございます。

 贈収賄が他人に非難されるか否かは、程度問題だったのでしょうかね。田沼は貰いすぎ。柳沢はほどほどだったのかな。

 Wikipediaの松平定信の項などにもありますけど、寛政の改革の推進者である松平定信は、田沼意次に賄賂に贈っているとのこと。
 賄賂政治を非難しつつも、自分もその仕組みを利用せざるをえなかったとは、なかなか辛いところですね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2013/01/27 10:04

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