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zoom RSS 大坂冬の陣木津川口の戦いの日。多数の溺死者をだしてしまった大将は誰なの?

<<   作成日時 : 2012/12/19 13:47   >>

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★歴史★
問題:木津川は、大阪府大阪市南西部を流れる淀川水系の下流における分流で一級河川だそうです。別に三重県のほうに流れていく木津川もあるようですが、本日の問題に登場するのは大阪湾に注ぐほうの川です。
■天正(てんしょう)4年(1576年)、織田信長に対抗し、石山本願寺に立て籠もる人々に、瀬戸内海の毛利水軍が兵糧を運びこんだらしい。このとき、木津川口で織田信長の軍船が撃破されているそうです。第一次木津川口の戦いだそうです。
■2年後、天正(てんしょう)6年(1578年)に信長の配下九鬼嘉隆(くき よしたか)が率いる九鬼水軍の安宅船(あたけぶね、軍船)が大坂湾を封鎖します。毛利水軍が攻め寄せますが木津川の沖で撃退されたそうです。第二次木津川口の戦いと呼ばれるらしい。
■天正(てんしょう)8年(1580年)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の調停で和議が成立し、顕如(けんにょ)らは石山本願寺から退きます。その直後、石山本願寺は火災で焼失したそうです。跡地に豊臣秀吉が大坂城を建設したとのこと。ご存じのとおり、秀吉が亡くなって秀頼の時代になり、すったもんだの揚げ句、大坂冬の陣・夏の陣があり、ついに豊臣方は滅びてしまいます。
■398年前の今日、1614年の12月19日に大坂冬の陣の緒戦がありました。和暦では慶長(けいちょう)19年11月19日だそうです。徳川と豊臣が覇権をかけて火ぶたを切ったわけですね。場所はまたもや木津川口だそうです。
■戦国から江戸にかけて、木津川口で起きた3度目の大きな争いです。「第三次」と呼んでもいいような気もします。でも、一般には単に「(冬の陣の)木津川口の戦い」と呼んでいるようですね。
■この戦いでは、徳川方の1人の武将が抜け駆けし、慌てた別の武将が強引に木津川を渡ろうと部隊に渡河を命じたところ、多数の溺死者を出したそうです。では、抜け駆けをした武将と部下を多数死なせてしまった武将の名前を次の中から選んでください。
[い]蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)
[ろ]浅野長晟(あさの ながあきら)
[は]池田忠雄(いけだ ただかつ)
[に]加藤清正(かとう きよまさ)
[ほ]福島正則(ふくしま まさのり)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)が抜け駆けし、[ろ]浅野長晟(あさの ながあきら)が部下を死なせた
説明:Wikipediaの記述によると、豊臣方は大坂城と海を結ぶ道の要所、木津川口に砦を築いています。明石全登(あかし たけのり)という武将に800人の兵をあずけ、守らせていたとのこと。
■戦さの前日、蜂須賀至鎮は砦を偵察します。これは落とせると勝算を得たのでしょうか。徳川家康に攻略の許可を求めたそうです。家康は、浅野長晟と池田忠雄と共同で攻めよ、兵を損じることなかれとして条件付きで認めます。総勢では3000人ぐらいの軍勢になるらしい。
■蜂須賀至鎮は、ジョイント・ベンチャーでは目立たない、手柄を独占できないと不満だったのかな。398年前の本日の未明、抜け駆けして単独攻撃に出ました。豊臣方にとって運の悪いことに、明石全登は大坂城に出張していたため留守だったようです。指揮官のいない守備兵は弱く、砦はたちまち陥落してしまったらしい。
■予定の時刻どおりに進軍しはじめた浅野長晟は、蜂須賀軍が先に行ってしまったことに気付きます。慌てた大将は部隊に進路上の河川を渡河せよと急がせます。ところがこの寒さです。当時もきっと寒かったのでしょう。多数の溺死者を出してしまったとのこと。砦での戦闘にも間に合わず、踏んだり蹴ったりでした。
■ちなみに、浅野長晟は、江戸城の天下普請の際、地盤の悪いところに石垣を作らされた大将ですね*5。隣は加藤清正の工区でした。浅野長晟は納期よりだいぶ前に仕上げて褒められたらしい。加藤清正は地盤を固めるのに時間をかけ、納期ぎりぎりで完成させたそうです。ところが慶長(けいちょう)19年(1614年)、木津川口の戦いの数ヶ月前らしいのですが、江戸に大雨が降ります。浅野長晟の工区は石垣が崩れ、犠牲者を出してしまったとか。加藤清正の石垣は時間をかけて基礎を固めていたため、びくともしなかったといわれます。この年の浅野長晟はよほどついていなかったのかな。
■なお、浅野長晟は、元和(げんな)5年(1619年)には改易された福島正則(まさのり)にかわり、安芸広島42万石を加増移封されています。以後、明治維新にいたるまで、広島の地は浅野家がおさめました。元禄(げんろく)14年3月14日(1701年4月21日)に吉良上野介を殿中で負傷させた浅野長矩(ながのり、内匠頭(たくみのかみ))は、浅野長晟の遠い血縁であり、赤穂藩は安芸広島藩の支藩だそうです。
■木津川口の戦いにおける敗軍の将、明石全登は、夏の陣の戦い以来行方不明だそうです。一説には伊達政宗に匿われたものの幕府の厳しい追及に耐えきれず、秋田に逃げて行ったとのこと。その子孫が元国連事務次長の明石康(やすし)だそうです*2。ホントかどうかはともかく、面白いお話ではあります。
◆参考*1:HP「木津川口の戦い (1614年) - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1614%E5%B9%B4)
◇*2HP「明石全登 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB
◇*3HP「蜂須賀至鎮 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%87%B3%E9%8E%AE
◇*4HP「浅野長晟 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%99%9F
◇*5HP「江戸城の石垣積みの工夫。子供を使って地盤を固めさせた知恵者はどの大名なの?」
http://blog.q-q.jp/201203/article_13.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
三度も戦いがあるとは、木津川口というのは、戦争をしやすい地形だったんですかね?
浅野長晟は、部下を死なせたり、石垣で失敗している割には、加増されて広島に・・・・
よっぽど、世渡り上手だったんですかね?
ねこのひげ
2012/12/20 08:03
コメントをありがとうございます。

 木津川口は、大坂攻略をたくらむ軍にとって、戦術上重要な地形・地勢だったのかもしれません。いまの大阪城近辺からは想像しにくいのですが。

 浅野長晟は28歳前後(1614年前後)には、疫病神にとりつかれていたようですが、長い目で見ると、たいへんラッキーですね。
 関ヶ原から徳川方についた外様大名ですが、大きな領地をもらって、安定した藩運営ができたようです。子孫たちからも感謝されたことでしょう。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/12/20 18:04

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