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zoom RSS 829年前の今日、源平の戦いのさなかに空に起こった不思議な現象とは?

<<   作成日時 : 2012/11/17 09:09   >>

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★歴史★
問題:いまから829年前の今日。1183年11月17日には、源平の戦い(治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱)のひとつの戦闘である水島の戦いがありました。
■屋島や一の谷、壇ノ浦の戦いなどに比べると知名度は低い戦いです。平氏側は平重衡(しげひら)、平通盛(みちもり)が現場を指揮し、源氏側は足利義清(よしきよ)らが指揮したらしい。このときの源氏側の総大将は木曽義仲(よしなか)です。戦場は備中国水島です。現在の岡山県倉敷市玉島港付近らしい。
■重衡は口絵の人物です。清盛の五男です。東大寺の大仏殿をはじめとする奈良の寺社に火をかけた武将とされます。のちの戦いの中で捕虜となり、鎌倉に護送されます。南都(奈良)の被害者たち、宗教関係者たちに強く請われて頼朝は重衡を引き渡します。木津川の岸で斬首されたとのこと。現代においても現住建造物等放火罪は死刑の可能性があります。けっして残虐な扱いではありません。
■平通盛は平忠盛の長男である清盛の弟、四男教盛(のりもり)のせがれです。清盛の甥ッコにあたるようです。重衡とはいとこ同士かな。
■水島の戦いでは、平氏が勝利します。足利義清ら幹部が敗死した木曽義仲軍は京都に撤退を余儀なくされます。平氏は摂津福原(神戸)まで前線を移動させ、4ヶ月後に一の谷の合戦を迎えることになります。
■ところで、水島の戦いのさなかには、不思議な自然現象が起きて片方の軍の者を驚かせたそうです。それは次のどれでしょうか?
[い]日食
[ろ]虹
[は]彗星
[に]蜃気楼
[ほ]竜巻
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]日食
説明:「源平盛衰記」には次のように記されているそうです*2。
---「寿永2年閏10月1日、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。城の中より 勝ち鼓をうってののしりかかるほどに、天俄(にわか)に曇て、日の光もみえず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、舟を退いていずちともなく風にしたがいてのがれゆく。平氏の兵(つわもの)どもはかねて知りにければ、いよいよ時(の声)をつくりて、重ねて攻め戦う」。
■参考資料*1と*2、*3の記述などからして、日食があったのは寿永2年閏10月1日、すなわち829年前(1183年)の今日(11月17日)であることはほぼ間違いないと思われます。
■気の毒な木曽義仲軍はそのころ平氏と水島で戦い、そのさなかに93〜95%ほどが欠ける金環食が起こってあたりが暗くなったことに動揺したとのこと。平氏はその日その時刻に日食が起こることを予知していたという説があります。情報の差が勝敗の帰趨にも影響したと「源平盛衰記」は語っているようです。
■平安時代の朝廷には、日食を計算する部署があったと聞きます。陰陽寮(おんみょうりょう)と呼ばれるらしい。我が国の陰陽師たちは、コペルニクスやガリレオよりも早く地動説を採用して計算していたのでしょうか。平氏が中国と交易していたことから、日食の情報がもたらされたという噂もあります。でも、中国人はどうやって計算していたのかな。江戸時代に入ってから、西洋式と東洋式のふたつの方法で日食を予測してみたことがあったらしい。残念ながら西洋式のほうが精度が高かったとされています。陰陽寮は日食予報を出していたようですが、空振りも多かったらしい。平氏側は日食の正確な日時を知っていたとする「源平盛衰記」の記述には、ちょっと首をひねりたくなります。
■なお、同時代を描いた作品「平家物語」の「巻八」に「水島合戦」の記述があります*4。読んでみると、日食についてはまるで触れられていません。乱暴に申し上げれば、海戦に慣れていたこと、準備のよかったことが平氏の勝因であると読み取れます。「源平盛衰記」とは見方が異なるようですね。
■源平の戦いで平氏側が勝利したのは水島の戦いだけだったそうです。勝ち点は3だけですね。あとは一の谷も屋島も壇ノ浦も連戦連敗です。なお、治承(じしょう)5年(1181年)の墨俣川(すのまたがわ)の戦いを源平の合戦のうちに勘定すると、源行家(ゆきいえ)側は負けていますので、平氏側の勝ち点は6になります。いずれにせよ決勝トーナメントには進めなかったようです。
■水島で惨敗した木曽義仲に悪い知らせが届きます。後白河法皇は関東源氏に上洛を促したらしい。義仲追討の宣旨が発せられているとも聞きます。京都に戻った木曽義仲は後白河法皇に抗議しますが、すでに源範頼(のりより)、義経軍がじわじわと近づきつつあったらしい。頭に来た義仲は後白河法皇を幽閉したそうです。
■寿永3年1月20日。西暦では1184年3月4日に宇治川の戦いで防衛ラインを越えられてしまった木曽義仲側は後白河法皇を連れて京都から逃げようとしたらしい。あくまでも官軍でいたかったのかな。義経が駆けつけ、後白河法皇はなんとか救い出されたようです。
■京都から落ちた義仲はおなじ日に近江の粟津(滋賀県大津市)あたりで討たれて最期を遂げます。満30歳ぐらいだったのでしょうか。前の年の夏、意気揚々と京都に入ってから1年も経たないうちの死でした。
■2週間あまり経った1184年3月20日。和暦では寿永3年2月7日です。範頼・義経連合軍対平知盛(とももり)・平忠度(ただのり)の軍勢が一の谷で戦います。現在の神戸市ですね。鵯越(ひよどりごえ)の奇襲作戦に成功した義経の働きなどで源氏は勝利し、いよいよ平氏は追い詰められていきます。水島の戦いで指揮をとった重衡クンは、この戦いのさなかにつかまっちゃって、鎌倉に送られたようです。
◆参考*1:HP「水島の戦い - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
◇*2HP「日食 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%A3%9F#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A7.E3.81.AE.E8.A8.98.E9.8C.B2
◇*3HP「1183年11月17日−源平合戦の日に金環日食|年代別の日食一覧表」
http://eclipse-navi.com/ichiran/nendai/1000to1899/1183.html
◇*4書籍「平家物語(八)」文庫初版141〜147頁、杉本圭三郎訳註、ISBN4-06-158358-1、講談社
◇*5HP「大仏の日。東大寺を焼き討ちして大仏を壊した武将は誰なの?」
http://blog.q-q.jp/200904/article_16.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
都に住んでいた平家のほうが、勉強していたということでしょうけどね・・・・
板東武者である源氏に負けてしまいますが、北条政子は平家の血筋で、そのあとの足利は源氏とコロコロと入れ替わっていきますね。

冲方丁さんの『天地明察』では、中国の授時歴を利用した主人公の渋川春海と陰陽師との争いが描かれてましたね。
ねこのひげ
2012/11/18 20:00
コメントをありがとうございます。

 織田信長は平氏の流れともいわれますね。
 家康は源氏を名乗ろうとしていたとWikipediaに記されていました。
 でもこれは間違いですね。もともと松平氏ですから、名前の後半部が示すように家康は赤い旗のもとで戦うのが正しいはずです。なんてね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/11/19 07:56

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