町人思案橋・クイズ集

アクセスカウンタ

zoom RSS 明六(めいろく)雑誌最後の日。近代日本に多大な影響を残した雑誌はわずか2年で廃刊なの?

<<   作成日時 : 2012/11/14 07:36   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 4

画像
★歴史★
問題:「明六雑誌」という雑誌名をご存じでしょうか。森有礼(ありのり、初代文部大臣)、福澤諭吉ら、明治の知識人たちが刊行した学術総合雑誌だそうです。
■明治六年に創刊されたので明六雑誌かと思えば創刊は明治七年だそうです。各号の表紙裏、業界でいう「表2」には発刊の辞が記されていたらしい。次のような文章です
---近頃友人同士が集まって、ものの道理や耳珍しい話に興じたことによって、学問を切磋琢磨しつつ、不明瞭な点を無くして心を晴れやかにした。その集まりの時の話を書き留めたところ幾冊にもなったので、これを出版し同好の士に配ろうと思う。薄い小冊子だが、人々の知識増進の助けとなれば幸いである。明治七年二月 明六社しるす
■発行元である明六社のほうはホントに明治6年に組織されたそうです。その人々が発刊した雑誌が明六雑誌という名前だったらしい。本日は、その雑誌の廃刊の日というか、最後の号の発行日らしい。43号まで発刊されたそうです。
■記事を書いたのは、次のような人々らしい。勝手に憶測して知名度の降順に並べると、福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)・西周(にし あまね)・森有礼(もりありのり)・津田仙(つだ せん)・津田真道(まみち)・中村正直(まさなお)・加藤弘之(ひろゆき)・箕作麟祥(みつくり りんしょう)・箕作秋坪(しゅうへい)・阪谷素(さかたに しろし)・西村茂樹(しげき)・神田孝平(たかひら)・柏原孝明(たかあき?)・清水卯三郎(うさぶろう)・柴田昌吉(しょうきち)・杉享二(こうじ)になります。ほとんどが留学帰りらしい。そのため、集会などは噛んだ西洋犬、失礼、神田精養軒などで開かれたそうです。
■では、最後の号の発行日を記念して明六雑誌についての雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか? (正しい記述は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]初めて世に出た号に、なぜか4号と記されている
[ろ]初期には福澤諭吉の論文が多く、諭吉雑誌ともいわれた
[は]和製漢語を作って新思想の紹介につとめた
[に]平均して毎号3万部弱を売り上げていた
[ほ]財政難から停刊のやむなきにいたった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[は]が正しい
説明:[い]初めて世に出た号に、なぜか4号と記されている(○)
■明六雑誌の大きな特徴のひとつは、自由気ままなところかもしれません。少なくとも現在のように創刊した最初の号は第1号、以後シリアルナンバーの順に発行していく…なんて堅苦しい考えはありません。第1号はありましたが、2号も3号も4号も最初の日にいきなり発売されたらしい。4号までが同時発売なんですね。
□発行日も少しずれます。第1号〜4号は3月と記されていますけど、4月2日に発行されたらしい。そもそもは月2冊の予定だったそうです。でも必ずしもそんなにキチンとは発行されていないとのこと。最後のほうは月1冊のペースになっているらしい。
□雑誌の判型は、B6(128×182mm)相当とA5(148×210mm)相当の2種類があったらしい。こちらは紙屋さんや印刷屋さんの都合にあわせたのかな。
□特別な編集方針はなかったようです。男女同権論とか宗教論、教育論、死刑廃止論、経済問題などが散発的に論文として発表されています。でも、「男女同権論特集号」みたいなものもなかったようです。そのときどきにありあわせの文章を掲載していたのかな。
[ろ]初期には福澤諭吉の論文が多く、諭吉雑誌ともいわれた(×)
■全部で156本の記事があったらしい。平均4本弱ですね。福澤諭吉は、43号まで発刊された雑誌のなかで3本の記事が掲載されたそうです。あまり多いほうとはいえません。いちばん多かったのは津田真道の29本。以下、西周が25本、阪谷素が20本、杉享二が13本、森有礼ら3人が11本、加藤弘之が10本と続くらしい。
□ちなみに津田真道は岡山出身の法学者、西周は島根出身の哲学者です。ふたりは一緒にオランダに留学したらしい。のちに2人とも政府の役人になったようです。阪谷素は漢学者・儒学者で、こちらも政府の役人とのこと。杉亨二はどんな人なのかわかりませんでした。加藤弘之は思想家にして教育者だそうです。東大総長などをつとめたらしい。
□福澤諭吉が書いた記事の題名は次のようなものだったらしい。「征台和議の演説」。これは台湾出兵についての論説だそうです。「男女同数論」。これは男女同権論への意見らしい。「男女は同数なので、男1人に女性が数人というのでは算盤の勘定が合わない」と論じたそうです。「内地旅行西先生の説を駁す(ばくす)」。 西先生とは西周のことらしい。「駁す」は「反論する」というほどの意味だそうです。
[は]日本語や漢字・平仮名を廃し、英字で生きていこうという論が掲載されているが、そのわりには和製漢語を作って新思想の紹介につとめた(○)
■森有礼とか西周らは、日本語を廃せといわんばかりの姿勢だったそうです。森有礼はそのせいもあったのか、後に右翼に刺し殺されています。ざまーみろ。ではなくて、あってはならないことですね。うん。
□それはともかく、新しい考えを輸入して紹介するにあたり、日本人にわかる新語をつくる必要があり、連中は必死でその和製漢語をつくったようです。
□たとえば次のような言葉は明六雑誌から普及したといわれているそうです。科学/農学/洋学/洋風/珪素/砒素/電磁/冤罪/検事/議会/領事/領事館/圧政/学制/原価/資金/外債/社交/社用/官権/広告/眼識/痴呆/熱心/保健/確保/確立/過食/玩具/現象/工場/申告。
□のちに中国や朝鮮でもこれらの言葉は使われていくことになるそうです。
[に]平均して毎号3万部弱を売り上げていた(×)
■正しくは、毎号3000部程度らしい。出版している森有礼が30号に掲載した記事内で語ったところによれば3205冊余。内務相の第1回年報によれば、平均2840冊前後とのこと。現在では経営を破綻させそうな数字ですが、当時としてはなかなかの数字らしい。当時最大部数を誇った「郵便報知新聞」は1日に6000〜7000部が売れたとのこと。「学術雑誌」がその半分近く売れるのは、奇跡に近いですね。
□1冊あたり3銭〜5銭だそうです。頁数の多少により価格も変動したらしい。平均4銭とし、3000冊とすると、120円ぐらいの売り上げでしょうか。物価を1万倍として考えると1冊あたりが300〜500円。売り上げが120万円です。当時の御雇い外国人1人分の月給ぐらいかな。
[ほ]財政難から停刊のやむなきにいたった(×)
■たしかにあまり儲かる商売ではなかったのでしょう。でも問題になったのは経営面ではなかったらしい。官と民の対立が問題になったようです。雑誌に論文を発表する者の多くが役人だったらしい。ご存じのとおり、福澤諭吉は民の代表です。
□政府は讒謗律(ざんぼうりつ、名誉毀損についての処罰を定めた法)と新聞紙条例をもうけて、反政府の言論を縛ろうとしたらしい。もともと明六雑誌はさほどに反政府の論文が掲載されていたわけではありません。でも、すでに自由民権運動の萌芽があり、触れないわけにもいかなかった、というのは単なる憶測ですけど。
□徐々に政治的になりつつある明六雑誌は、内部で雑誌の将来に対して意見が分かれたらしい。箕作秋坪や福澤諭吉は発刊停止を主張し、森有礼や西周は続行を主張したそうです。結局、福澤諭吉らの意見がとおり、明治8年(1875年)の今日、1年半あまり続いた雑誌は明治8年(1875年)の今日、最後の号を発行してそれなりけりとなったようです。
◆参考*1:HP「明六雑誌 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%85%AD%E9%9B%91%E8%AA%8C

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
本来、本というのはあまりもうかる商売ではなかったようですね。『わがはいは猫である』の夏目漱石でさえも、教授をやめてなかったそうですし・・・・
江戸時代では、黄草紙と呼ばれた小説などは原稿料がなくて、版元が食べさせていたようですし・・・・
ねこのひげが、10代20代のころ、少年雑誌のジャンプが100万部突破したというので大騒ぎしていた記憶があります。
現在、本が売れないというのは、明六雑誌の売れ行きに比べれは戯言ですよね。
ねこのひげ
2012/11/14 08:19
コメントをありがとうございます。

 Wikipediaの曲亭馬琴の項によれば、印税収入で生活が成り立った最初の人が馬琴氏だそうです。それまでの人は全員が赤字で、なんらかの補填が必要だったことになりますね。
 それにしては江戸時代の出版文化は隆盛だったようです。誰が儲けていたんでしょうか。版元かな。絵草紙屋かな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/11/14 09:16
儲かっていたのは、版元でしょうね。
そのかわり、吉原に通わせたり、衣食住は全部持ったみたいですからね。
現代でも、出版社は、新人漫画家や売れない作家に飯を食わせたり酒を奢ったりしているみたいですからね。
だから、売れたときに元を取ろうとしているわけで・・・・
戦前、戦後は、原稿料の前借なんて当たり前だったそうです。
ねこのひげ
2012/11/15 08:12
コメントをありがとうございます。

 版元は儲かっていたかもしれません。でも富豪とかお金持ちのイメージはありませんね。
 考えてみると、出版業はあまり利益のあがる商売ではなかったのかもしれません。
 利幅の大きな仕事なら、豪商たちも参入したかもしれません。でも連中も材木や呉服の売買には手を染めても、出版業には関心を持たなかったようですね。

 銀行の人に聞くと、出版業は危ない仕事、つまりお金を貸しにくい商売のうちに入っているとのこと。昔も今も出版業は、あぶなかっしく、なかなか儲からない商売なのかな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/11/16 11:21

コメントする help

ニックネーム
本 文
明六(めいろく)雑誌最後の日。近代日本に多大な影響を残した雑誌はわずか2年で廃刊なの? 町人思案橋・クイズ集/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる