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zoom RSS 禁闕(きんけつ)の変の日。奪われた三種の神器はその後どうなったの?

<<   作成日時 : 2012/10/17 09:07   >>

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★歴史★
問題:延元(えんげん)元年[南朝](1336年)に後醍醐天皇は南朝を開きます。足利尊氏が立てた北朝とともに南北朝時代が半世紀以上続きます。でも元中(げんちゅう)9年[南朝](1392年、明徳3年[北朝])に明徳の和約と呼ばれる和睦が成立します。
■名目上は争いは解消されました。正統な天皇家の証明となる三種の神器は南朝から返されました。ところが足利義満は、和約の条件である、両統迭立(りょうとうてつりつ)を守らなかったようです。両統迭立とは、南朝北朝がかわりばんこに天皇を立てるという意味らしい。
■怒った南朝側では、ときどき北朝方を襲ったりしていました。足利将軍家に叛旗をひるがえすものが出ると、加勢にいったりもします。敵の敵は味方という考えなんでしょうね。
■南朝側の怒りのひとつのあらわれは、569年前にも起きました。1443年の今日、10月17日に禁闕(きんけつ)の変が起きます。和暦では嘉吉(かきつ)3年9月24日らしい。首謀者は南朝の後亀山天皇の子孫ともいわれる金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)の兄弟、源尊秀(たかひで?)、日野有光(ありみつ)らだそうです。楠木次郎(正秀)という人物が加わっていたという話もあります。
■ちなみに、後亀山天皇は南朝最後の天皇であり、足利義満との和議に応じた人です。三種の神器を時の北朝側天皇後小松天皇に渡して譲位した人らしい。応永(おうえい)31年(1424年)に崩御しています。禁闕の変の起きた嘉吉3年には鬼籍に入っていたわけですね。
■禁闕の変の2年前には、赤松満祐(みつすけ/まんゆう)が6代目将軍義教(よしのり)を暗殺する嘉吉の乱が起きています。7代目はわずかに8ヶ月の在位期間でした。嘉吉3年の7月に10歳で死んでしまう義勝(よしかつ)君ですね。8代目は義政が継ぐことになっていましたが、準備が整っていなかったのでしょうか。将軍空位の状態のときに禁闕の変が起きているそうです。
■一味は後花園天皇の暗殺と三種の神器の奪還を目標としていたらしい。御所に押し入ります。三種の神器の奪還には成功します。後花園天皇は殺せなかったようです。逃げ足が速く、左大臣の私邸に転がり込んでしまったらしい。一説には女官たちが女装させ、天皇を逃がしたとも言われます。
■南朝の祖、後醍醐天皇は足利尊氏が入京した際に比叡山を頼って逃げ込んだことがあるらしい。歴史は繰り返すのかな。三種の神器を奪った連中も比叡山に逃げ込んだそうです。ところが数日のうちに追討軍が組織され、幕府軍がやってくると比叡山の僧の一部からも狙われるようになります。金蔵主以下何人かが討ち死にします。
■奪われた神器のうち、剣は清水寺の前で見つかったといわれます。鏡も戻ったらしい。ところが勾玉、神璽(しんじ)といわれる八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は見つかりませんでした。では、この失われた勾玉はその後どうなったのでしょうか? 次の中から正しい説を選んでください。
[い]1週間後に比叡山に登る山道で発見された
[ろ]高額な懸賞金付きで捜索が始まると、拾ったと称する農民があらわれ、無事北朝の手に戻った
[は]赤松満祐の遺臣たちが奪い返し、赤松家の再興につながった
[に]逃走の途中で「奪われるぐらいなら」と一味によって破壊されてしまった
[ほ]失われたままで21世紀になっても見つかっていない
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]赤松満祐の遺臣たちが奪い返し、赤松家の再興につながった
説明:赤松満祐は、例の将軍暗殺劇のあと、播磨国の城にもどり立て籠もります。幕府の討伐軍に包囲され、嘉吉元年9月10日(西暦1441年9月25日)に切腹して果てました。
■もちろん播磨国はとりあげられ、赤松の一族郎党は悲惨な目にあいます。そんななかでもお家を再興したいと考えていた遺臣たちがいたらしい。嘉吉の乱の2年後に禁闕の変が起き、勾玉が失われたという知らせを聞いたとき、これは絶好の機会と受けとめたのかもしれません。勾玉を奪い返して天皇に返せば、ご褒美にお家再興はありうるのではないか。
■いろいろ調べてみると、禁闕の変のあとで行方をくらましている連中がいます。どうも吉野方面に逃亡したらしい。ということは、勾玉を持った連中は、南朝側にこれを返還したのだろう。おそらくはそのように推理したのでしょう。勾玉を笈(おい)に入れて背負って逃げたのは楠木次郎であるという説があるようです。
■なお、八尺瓊勾玉は、名前では8尺で2.4m以上もありますが、実際の大きさは1人でリュックサックに入れて背負えるぐらいの大きさかもしれません。昭和天皇の大喪の礼の際に八尺瓊勾玉が納められた箱を持った従者は、「子供の頭くらいの丸い物が入っている様に感じた」と話しているらしい*4。
■禁闕の変の14年後の長禄(ちょうろく)元年12月2日。西暦では1457年12月18日。赤松の遺臣たちは後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王(じてんのう)を殺して神璽を持ち去るのに成功しかけます。でも、このときには後南朝びいきの吉野の民により、神璽を奪還されてしまいます。
■翌年には自天王の母親の屋敷を襲い、ふたたび神璽を持ち去ります。今度は京都までうまく逃げおおせたらしい。勾玉は15年ぶりに北朝側に戻りました。神璽の奪還成功の功績を認めた室町幕府は、赤松政則(まさのり)に家督相続を許します。今度は加賀国の北半分の守護大名に任じられたとのこと。遺臣たちの企みは見事に図に当たったわけですね。ちなみに赤松政則は、満祐の弟の孫にあたる人物だそうです。
■この経緯の一部は芝居にもなり、宝塚歌劇団も「睡れる月」という演し物にしているそうです*3。たしかに面白い物語になっていますね。
◆参考*1:HP「禁闕の変 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%97%95%E3%81%AE%E5%A4%89
◇*2HP「南木(なぎ)-楠木正秀【楠正秀】-」
http://kusunoki.komusou.jp/masahide.html
◇*3HP「TAKARAZUKA REVUE 公演案内」
http://kageki.hankyu.co.jp/revue/05/01snow_2/index.html
◇*4HP「八尺瓊勾玉 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B0%BA%E7%93%8A%E5%8B%BE%E7%8E%89

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
八尺というのは、大きいという意味でつけたのでしょうね。
でも背中にかついで行くということは、やはりかなりの大きさの勾玉ですね。
物語としても面白いですね。

そういえば、安徳天皇が入水したとき三種の神器を持って入水したんではなかったっけ〜?
ねこのひげ
2012/10/18 06:48
コメントをありがとうございます。

 たしかに安徳帝とともに三種の神器が関門海峡に沈んだという話を聞いたことがありますね。

 Wikipediaの三種の神器の項で調べると、「草薙の剣」については水没したようなことが記されています。残りのふたつはどうなっちゃったのかな。
 150年ほど経過して、後醍醐天皇は足利尊氏に迫られて三種の神器を渡したらしい。後になって、あれは模造品と言いだし、こっちが本物だと主張しつつ、南朝を開いたらしい。
 明治天皇も南朝の神器が本物説を支持していたとか記されていました。
 現在では、「…八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているとされている」
 剣は引き揚げられたのでしょうかね。素人にはよくわかりません。なんでも鑑定団で調べてもらったらどうかな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/10/18 08:07
北朝は京都、南朝は奈良県吉野郡。後醍醐天皇の豪華絢爛なる朝廷は吉野山に荘厳にしてきらびやかに建立…

いやいやたぶん吉野の山にはあったはず(詳しくわからない)

南北朝廷があやふやな「日本史」なので天皇の象徴たる"三種の神器"。南北それぞれにお持ちあらせた可能性(笑)

「草薙の劒(つるぎ)」は熱田神宮宝物殿にあります

第二大戦中、名古屋空襲を想定し"岐阜県の飛騨に"草の薙劒"を神官がせっさホイサッと輸送

それがヤマタノオロチの尻尾から出たかどうかは知らない(笑)
sadakun_d
2012/11/09 16:08
コメントをありがとうございます。

 天皇家にまつわるお話には、いろいろ疑問が残りますね。
 ご存じのように、古事記や日本書紀に記された初期の天皇たちも、実在したかどうかは疑わしい。神武天皇の127歳をはじめとして、100歳を越えた天皇が10人近くいたなんてね。信じにくい。

 神器というのは、伝説であるとともに実体のあるものですから、いろいろわかる可能性があるでしょう。

 でも、宮内庁はきっと調べさせてくれないんでしょうね。歴代天皇陵の調査も拒んでいると聞きます。伝説は伝説。事実は事実として科学の力で解明すべきだと思うのですが。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2012/11/10 12:00

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