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zoom RSS いちばん若くして亡くなった徳川将軍。家継には正室がいたの?

<<   作成日時 : 2012/08/08 07:41   >>

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★歴史★
問題:江戸時代の将軍の中でいちばん若くして死去したのは第7代将軍徳川家継(いえつぐ)だそうです。6代将軍家宣(いえのぶ)の4男として生まれたのが 宝永(ほうえい)6年7月3日(1709年8月8日)。7代将軍として死んだのが正徳6年4月30日(1716年6月19日)。6年と10か月あまりの人生でした。お兄さんたち、家宣の長男から3男も早世しているらしい。
■征夷大将軍になったのが正徳(しょうとく)3年4月2日(1713年4月26日)、大安吉日だったようです。満3歳8か月あまりだったらしい。将軍としてわずかに3年あまりの在任期間でした。
■ではあまりにあっけない生涯だった徳川家綱についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか? (正しい記述は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]歴代の征夷大将軍の中でいちばん若かった
[ろ]父家宣(いえのぶ)がなくなるとき、幼い家継を心配し、2案の将軍継承案を遺言した
[は] 死因は梅毒と推定されている
[に]家継には正室がいた
[ほ]家継には養子がいた
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[に]が正しい
説明:[い]歴代の征夷大将軍の中でいちばん若かった(×)
■もっと若くして征夷大将軍の宣下(天皇の命令)を受けた人物がいます。鎌倉幕府7代目の将軍、惟康(これやす)親王です。文永(ぶんえい)3年7月24日(1266年8月25日)に征夷大将軍になりました。生まれたのは文永元年4月29日(1264年5月26日)です。2歳3か月ぐらいで征夷大将軍になっちゃった計算です。
□もちろん鎌倉幕府ですから執権北条氏が実権を握っています。将軍は単なるお飾りです。7代目の徳川家継もお飾りでしたが、こちらは無事に生長すれば、いずれは実権を握れる立場でした。
[ろ]父家宣(いえのぶ)がなくなるとき、幼い家継を心配し、2案の将軍継承案を遺言した(○)
■当時、幕府の中枢にいた新井白石(はくせき)の随筆「折りたく柴の記」には、2案が次のように記されているらしい。ひとつは、「次期将軍は尾張の徳川吉通(よしみち)にせよ。家継の処遇は吉通に任せよ」。もう1案は、「家継を将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行させよ」。
□遺言を枕頭で聞いた新井白石と間部詮房(まなべ あきふさ)は、家宣の死後に少し違った方向で動きます。「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松クンを将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」。
□鍋松というのは家継の幼名だそうです。白石と詮房らは鍋松の擁立を推進したらしい。なにしろがんぜない将軍です。自分たちの思い通りに動かせると思ったのかもしれません。
□白石らの思惑で権力を握りそこねた徳川吉通というのは尾張藩4代目藩主だそうです。次期将軍へと推す声もあったようです。ところが正徳(しょうとく)3年7月26日、西暦では1713年9月15日に満23歳あまりで頓死します。同年の西暦4月26日に家継は将軍に就任しています。
□尾張藩は幼い息子五郎太(ごろうた)が5代目として跡を継ぎますが、3か月ほど経った1713年12月5日にこちらも頓死。吉通の弟継友(つぐとも)が6代目を継ぎます。「いろいろあって君が6代目の候補だけれど、継いでくれるかな」、「つぐとも」という会話が名古屋城でかわされた…というのは素人の憶測に過ぎません。
□7代目将軍家継は正徳6年4月30日(1716年6月19日)に亡くなります。その跡目、8代目将軍が決まる様子を描いた落語「紀州」では、尾州公は格好をつけて最初の将軍要請を断り、紀州の吉宗に将軍職を奪われ、あとで後悔することになっています。チャンスを逃した主人公は吉通の弟継友なのかな。
[は]死因は梅毒と推定されている(×)
■死因は風邪と見られているようです。なかなか利発な子供だったようです。惜しいことをしました。
□紀州の吉宗による暗殺説もささやかれています。尾州藩の4代目5代目、6代目将軍家宣も吉宗にやられたという噂があります。吉宗君には動機はありますし、機会もあったかもしれません。ただし裏付けとなる物証は何ひとつ見つかっていません。
[に]家継には正室がいた(○)
■正徳(しょうとく)4年9月29日、西暦では1714年11月16日、霊元法皇の第13皇女吉子内親王と家継は婚約したとのこと*3。花嫁は生後1か月。花聟は家継は満5歳だったらしい。この花嫁はひょっとしたら史上いちばん若くして未亡人となった人かもしれません。旦那が亡くなったとき、満1歳と7か月ぐらいですものね。ギネスに申請してみたらどうかな。
[ほ]家継には養子がいた(×)
■実子はもちろんいませんし、養子もいませんでした。もしいたらその人が8代目の将軍だったのでしょうか。いろいろと揉め事があったかもしれませんね。ご存じのとおり、8代目として吉宗が選ばれ、以後はずっと紀州系の将軍が続くことになります。
◆参考*1:HP「徳川家継 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99
◇*2HP「徳川吉通 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E9%80%9A
◇*3HP「吉子内親王 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

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8代将軍徳川吉宗以降の将軍に共通する特徴とはなに?
●●●●●★歴史★● 問題:8代将軍の徳川吉宗は、紀州徳川家の出身です。享保の改革を推進した人物であり、名君として知られています。テレビドラマ「暴れん坊将軍」のモデルもつとめています。 ■この人物以降、15代の慶喜(よしのぶ/けいき)にいたるまで、ある共通した特徴があるそうです。それはどんなことでしょうか? (正しい記述は無いかもしれないし複数かもしれません) ...続きを見る
町人思案橋・クイズ集
2012/09/01 08:33

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
先週だったか?都内で江戸時代の墓地が見つかり発掘して見たら、子供や幼児の骨が多かったという記事がありました。
江戸時代は子供の死亡率が高かったようですね。
だから、大奥などというのを作ったけど、結局、すぐに直系の将軍ではなくなりましたね。
ねこのひげ
2012/08/09 04:53
コメントをありがとうございます。

 女性は自分の子であることがよくわかりますが、男性にはわかりません。
 家康のたくさんいた息子さんたちの中にすら、ひょっとしたら浮気の副産物のかたが1人ぐらいはいたかもしれません。秀吉の息子さん、秀頼君も疑惑をかけられていますし。

 DNA鑑定もない時代です。「直系」なんて、あまり意味がないのかも。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/08/09 06:47
名古屋の小学校「徳川御三家〜尾張徳川は将軍さんはいなかった」と教える。

尾張の徳川吉通は知らなかったが、吉通の弟の宗春は"名古屋で、ドエリャー有名だがね"(吉宗のライバル)

尾張徳川から、将軍さんは、このチャンスが最初で最後。吉宗の殿様〜頑張ってもらいたかった。(笑)

sadakun_d
2014/12/19 16:14
6代家宣(3年間)7代家継(3歳から8歳)・・・せわしき将軍たち。新井白石と間部詮房(まなべあきふさ)が‘政策‘を将軍を飾りにしてやりたい放題。

さて幼少の家継(3歳)は月光院(母堂で美貌な未亡人)がいた。 独身の間部詮房はこの美貌にメロメロで・・・やいやい。家継が実子としたら最高な「日本史」のできあがり
sadakun_d
2016/08/28 07:29
コメントをありがとうございます。

 DNA鑑定ができない時代ですから、いろいろ人間的な過ちがあり、しかも見過ごされてしまった可能性はありますね。
 豊臣秀頼も秀吉の実子ではないとする説があると聞きます。ホントだとしたら面白いのですが。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2016/08/28 20:33

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