清水の舞台はなんのために設けられたの?

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★歴史★
問題:清水寺は京都の観光名所です。東山の山麓にあります。高い舞台からは京都が一望できます。といっても、舞台は京都市内を向いているわけではありません。方向としては、やや東寄りの南向きに開放されています。
■上方落語「はてなの茶碗」では、清水寺の音羽の滝近くの茶店での客と客の出会いから、二束三文の茶碗が千両で売れるという不思議な話が展開します。このあたりは、今様にいえばパワースポットなのかな。
■「清水の舞台から飛び降りたつもりで」という決まり文句があります。清水の舞台はたしかに高い。12mほどあるらしい。Wikipediaによると、元禄(げんろく)7年(1694年)から元治元(1864)年のあいだに234件の飛び降りがあったそうです。生存率は85.4%だったとあります。1件につき1人が飛び降りたと仮定して計算すると199人(85.04%)か200人(85.5%)ぐらいが助かったのかな。四捨五入して85.4%になる数はありませんでした。2人以上が一緒に飛び降りた事件があったのかもしれません。
■それにしても、意外に生存率は高いな。6連発のリボルバーに1発だけ弾を込め、弾倉を回して1回だけ引き金を引く。そんなロシアンルーレットとおなじぐらいの確率で助かるようです。まっ、飛び降りの場合は、ほとんどの人が怪我は負うのでしょうけれど。
■本日のクイズは清水の舞台が作られた目的です。なんのためにあの高い舞台を作ったのでしょうか? 参考資料*2の記述を正解とします。下の選択肢からえらんでください。(正しい記述は無いかもしれないし複数かもしれません)
[い]能や狂言を神様に奉納するため
[ろ]参詣する重要人物の暗殺の危険を避けるため
[は]地上のいやな臭いを避け、少しでも清浄な空気を吸うため
[に]京都を一望できる観光資源をえるため
[ほ]飛び降り自殺志願者の便宜を図るため
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]地上のいやな臭いを避け、少しでも清浄な空気を吸うため
説明:参考資料*2によれば、清水寺のあるあたりは、鳥辺野(とりべの)と呼ばれたそうです。平安時代の前、首都がやってくる前から、鳥辺野は墓地・葬送の地だったとのこと。
■平安時代には、一般庶民は墓地などに入れません。そもそも大宝(たいほう)元年(701年)の大宝令では、庶民は墓を作ってはいけないとされていたそうです*2。庶民の遺体の主な処理方法はふたつあったらしい。川に流してしまうこと。もうひとつは、人目につかないところにそっと置き去りにすることです。
■平安末期から鎌倉初期にかけての九条兼実(かねざね)の日記「玉葉(ぎょくよう)」には、鴨川が氾濫して死体が街の中を流れていく様子が記されているらしい。自分の家の玄関先に引っかかっていたらどうするのかな。棒で突っついて押し返すのかな。
■これではあんまりだというので、すでに平安時代に死体を捨てる場所を限定する約束事ができたらしい。そのとき、化野(あだしの)などと並んで鳥辺野も死体遺棄の地として公認されたようです。清水寺はその鳥辺野のまっただなかです。舞台に運ばれた死体は、セーノッという掛け声とともに下に投げ捨てられたのかな。「あの舞台は、崖の下に死体を投げ捨てるために設けられた棚だったのである」と参考資料*2には記されています。
■動物性蛋白質を求めて、烏などの鳥、狼などの四つ足も出没したと想像されます。もちろんすごい悪臭がするでしょう。冬もするだろうし、夏なんかたまらんでしょうね。でも死骸の山に直接近づくよりは、12mほど上空の空気を吸えるわけですから、舞台の上から落とすほうがマシだったのかもしれません。舞台が東寄りの南向きに建てられたのは、そういう目的だったからなのかな。
■平安時代の京都の人口がどのぐらいだったのかはわかりません。かりに20万人とします。平均寿命は庶民で40年ぐらいでしょうか。乱暴に考えれば毎年5000人ぐらい亡くなる計算かな。風葬の指定地が5箇所あったとすれば1箇所につき平均1000人が捨てられます。1日平均3人ぐらいが清水の舞台から投げ捨てられた…というのは勝手な計算です。ちなみにこの投げ捨てというか飛び降りの生存率は、ほぼ0%と見られています。
■なお、能や狂言を神様に奉納するのに舞台が使われたというのもひょっとしたらあたっているかもしれません。たしか狂言だったと思いますが、現代の清水の舞台の上で演じているのをテレビで観たことがあります。
■ただし、能や狂言ですから室町時代以降の話です。清水寺が創建されたのは宝亀(ほうき)9年(778年)と伝えられるそうです。奈良時代末期らしい。清水の舞台は能や狂言のために作られたわけではなさそうです。
■平安末期から鎌倉時代に盛んになった浄土真宗などの仏教では火葬を強く推奨したらしい。皇族・貴族・宗教人以外の死体の火葬も徐々に行なわれるようになったようです。ただし費用がかかります。貧乏ですといままでどおり風葬/鳥葬なのかな。清水の舞台が観光資源となったり芸能の場となったのは、時代が進み、「死体を投げ捨てる棚」から脱却したあとなのでしょうね。
◆参考*1:HP「清水寺 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA
◇*2書籍「樋口清之博士のおもしろ雑学日本史」初版105~107頁、樋口清之(きよゆき)著、ISBN4-8379-1384-9、三笠書房

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この記事へのコメント

ねこのひげ
2012年07月08日 04:43
匂い消しですか~(~o~)
なんだか悲しいですね~
応仁の乱から戦国時代にかけても、都往事や加茂の河原には、死体がゴロゴロしていたそうで・・・雅とはほど遠いですな~(~_~;)
ねこのひげ様<素町人
2012年07月08日 09:58
コメントをありがとうございます。

 平安時代では、ほとんどの人が水葬か鳥葬でしょうから、疫病の流行や自然災害などがあれば、そこここに死体は見られたのでしょうね。

 落語の「黄金餅」とか「らくだ」では、庶民も火葬をする様子がうかがえます。天保銭6枚=600文弱ですから、「時そば」のしっぽくそばが37杯ほど食べられるお金で、お寺さんと火葬場の費用がまかなえたらしい。そばを400円とすると、1万5000円前後ぐらいでしょうか。
 江戸時代末期になると、宗旨にもよるのでしょうが、火葬はかなり一般的になっているのかもしれません。
(^^;)
2019年07月15日 06:21

根拠が根拠になっていませんね。
樋口清之博士のおもしろ雑学日本史の清水寺の舞台の件の元ネタが、
樋口清之博士の「逆(さかさ)・日本史3」(祥伝社)です。

そこには『あの舞台は、谷間に都の庶民の死体を捨てるために、棚を突き出して造ったのではないかと思われる。』と書かれています。
これは、樋口博士の推測です。(平安時代の頃も文献の証拠は無い)

清水寺のあるのはかつての鳥辺野の一部ですが、鳥辺野は広い。
現代の定義の場所も広いのですが、平安時代はもっと広かった。

樋口博士は、現代の鳥辺の野の定義の1つを根拠に推測を組み多々ているので、話になりません。
そもそも、舞台から飛び降りて落ちるのは真下の境内です。
数㎞先の大谷廟に放り込めるって、そんな腕力の持ち主なんでしょうか。

中世欧州まで使われていた投石機を使っても、そこまで飛びませんよ。
(古代ローマには死体を敵城郭都市の中に放り込んで疫病を流行させた。という記録がありますが、それでも放り込んだのは数メートル先です)

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