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zoom RSS 土地問題で鎌倉に訴えた「十六夜日記」作者の執念。ついに実ったの?

<<   作成日時 : 2012/06/06 07:33   >>

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★歴史★
問題:「十六夜日記(いざよいにっき)」という文学作品があります。文科系のかたはご存じかもしれません。鎌倉時代に阿仏尼(あぶつに)という女性が記した日記だそうです。所領紛争を解決するべく鎌倉に向かう女性の心情その他が綴られているようです。
■そもそも阿仏尼は桓武平氏の流れだそうです。貞応(じょうおう)元年(1222年)ごろに生まれています。皇族に仕えていましたが、十代の初恋で失恋します。ショックで出家してしまったらしい。初恋で得恋というのは少数派です。いちいち頭を丸めていたら、巷は坊主だらけになってしまう。少なくとも現在はそうですが、昔は違ったのかな。
■尼さんになったのに、この人は俗世間から離れなかったらしい。歌道の名家の御曹司、藤原為家(ためいえ)の側室におさまっています。満30歳ぐらい、為家は満54歳前後だったようです。30歳は現在なら若い年増ですが、当時は大年増だったはずです。ちなみに為家のお父さんは藤原定家(さだいえ/ていか)です。小倉百人一首の選者ですね。「新古今和歌集」の選者でもあります。和歌業界の超大物です。為家と阿仏尼のあいだには為相(ためすけ)が生まれます。
■為家には、正室の子為氏(ためうじ)らがいました。父為家は所有する播磨国細川荘という荘園を当初は長男為氏に譲るとしていたそうです。でも阿仏尼の色香に迷ったのか、後に前言を翻して遺言で為相へ譲るとしたらしい。これが長期に渡る揉め事の原因です。ちなみに、公家の法では「悔い返し」は認められない、武家法では認められるとのこと。「大辞泉」の「悔い返し」の項によれば、「中世武家法で、いったん譲与した財産・所領を、その譲り主が改めて取り戻すこと。『貞永式目』でも親の子息に対する悔い返しが規定されており、それがたとえ安堵(あんど)された所領であっても行使できる強力な権利として認められていた」。
■建治(けんじ)元年(1275年)に為家が亡くなります。満77歳前後です。なかなかのご長寿ですね。あっちのほうも頑張ったみたいだし。為氏は遺言に従いません。細川荘を譲らない。正妻の子為氏にしてみれば、あとから割り込んで来て父親をたぶらかした悪い女という見方だったのかな。実力行使に出たようです。そもそも為氏は阿仏尼の讒言で為家により勘当されていたという話もあります*1。
■阿仏尼はまず京都の六波羅探題に訴え出たようです。こちらは公家の法で裁くのでしょうか。阿仏尼側の敗訴となります。頭に来た阿仏尼は、50代の女性なのに鎌倉までおもむき、武家の法で裁いてもらおうとするらしい。
■その道中、「女流歌人でもある阿仏尼は各地で風物、名所・旧跡や感慨を日記に書いた」そうです。これが「十六夜日記」になったのかな。
■鎌倉についたのは弘安(こうあん)2年(1279年)だったようです。この年の旧暦10月16日、西暦では9月10日に出発したとのこと。16日に出発したことから日記の名前がついたようです。
■それにしても時代が悪かったかもしれません。ご存じのとおり、文永(ぶんえい)11年(1274年)に最初の元寇があり、弘安(こうあん)4年(1281年)には2度目があります。国の存亡が危ぶまれているときです。小さな遺産相続の紛争などにかかずらわっている閑はない。鎌倉幕府としてはそんな気分なのかな。
■阿仏尼は鎌倉でもて余した時間を使って歌人としての活動はしたものの、裁判の結審をみることなく、弘安(こうあん)6年4月8日、西暦では1283年5月6日に亡くなってしまいます。満61歳前後らしい。
■では、この裁判はその後、どんな結論になったのでしょうか?
[い]裁判そのものがうやむやにされてしまい、土地は為氏が占有するままとなった
[ろ]阿仏尼の息子の為相が裁判を受け継ぎ、最後に勝訴している
[は]為氏が六波羅探題の判例を鎌倉幕府に提示し、訴訟そのものが却下されている
[に]為氏も亡くなり、阿仏尼と為氏の息子同士の争いになったが最後に為氏側が勝訴している
[ほ]喧嘩両成敗ということで、細川荘そのものがいったん鎌倉幕府に召し上げられ、元寇での働きのめざましかった九州の武将に褒美として与えられている
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]阿仏尼の息子の為相が裁判を受け継ぎ、最後に勝訴している
説明:阿仏尼は弘安6年(1283年)に亡くなりますが、訴訟の被告人である為氏もその3年後に亡くなってしまいす。満65歳ぐらいらしい。その死の直前、いったんは為氏側に有利な院宣が出たらしい。為氏は胸をなでおろして安らかに死の床についたのかな。
■その後、それぞれの息子為相と為世(ためよ)が紛争を引き継いだようです。阿仏尼が亡くなってからちょうど30年後の正和(しょうわ)2年(1313年)。旧暦の7月20日、西暦では8月12日でしょうか。関東裁許状という文書が発行されたらしい。判決文としては、「於当荘地頭職者、任文永両通譲状並正応二年下知状、所被付前右衛門督家(冷泉為相)也」。為相が安堵されたようです。劇的な逆転勝訴かな。
■長い戦いは終わりました。為相は冷泉(れいぜい)家を興しており、その後も歌道の公家として命脈をたもち、現在でもその分派である上冷泉(かみれいぜい)家25代当主というかたが健在だそうです。
■ちなみに現当主の名前は為人だそうです。祖である冷泉為相の「為」をずっとつないでいるのかな。為人氏の4番目の弟に為五郎という人がいたりすると「あっと驚く」のですけどね。
◆参考*1:HP「阿仏尼 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BB%8F%E5%B0%BC
◇*2HP「瀬野精一郎.悪女阿仏尼」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-seno-seiichiro-abutuni.htm
◇*3HP「十六夜日記 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A4%9C%E6%97%A5%E8%A8%98

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
「十六夜日記」は昔、読んだ記憶がありますが、内容まで覚えてませんでした。
鎌倉幕府に訴えに行く途中に書かれた物とは知りませんでした。

しかし、裁判というのは、今も昔も時間がかかるようで・・・・・(~o~)
ねこのひげ
2012/06/08 05:30
コメントをありがとうございます。

 裁判はたしかに時間がかかりますね。
 それだけでなく、死刑の執行にも時間がかかります。なぜ死刑判決が確定した人物を長期間生かしておくのか。それも国民の税金を使って。

 死刑執行を認めない法務大臣は私財をなげうって連中の衣食住の費用を負担すべきでしょう。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/06/08 09:43

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