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zoom RSS 大隈重信が内閣を組閣した日。今でも保持する首相在任に関する2つの記録ってなに?

<<   作成日時 : 2012/06/30 07:53   >>

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★歴史★
問題:大隈重信(おおくま しげのぶ)は、ご存じのとおり、早稲田大学の創立者であり、政治家としては2度の首相を経験した明治教育界・政界の重鎮です。
■天保(てんぽう)9年2月16日(1838年3月11日)、佐賀藩で300石の禄を得ていた上士の家に生まれたそうです。明治維新のころは30歳前後。体力もあり経験も身についてきたころです。ちなみに、維新三傑と呼ばれる木戸孝允(こういん)・西郷隆盛(たかもり)・大久保利通(としみち)は、文政(ぶんせい)11年(1828年)〜天保(てんぽう)4年(1833年)に生まれているそうです。
■大隈は、得意の英語を生かしてイギリス公使パークスとの交渉などで力を発揮したそうです。明治6年(1873年)には参議兼大蔵卿に就任しています。いまでいう財務大臣です。いまの人とは随分と貫禄がちがいますが。
■以後、下野したり伊藤博文や黒田清隆(きよたか)の内閣で外務大臣に就任したり爆弾で片足を失ったりといろいろありました。爆弾は右翼のテロだそうです。大隈が進めた外国人判事を導入するという条約案に反対したものらしい。
■暴力はいけません。いけませんけど、素人には反対派の気持ちもわかります。大隈の案は、「(植民地的な)領事裁判権を撤廃するかわりに大審院に限定して外国人判事を任用する」というものだったようです。明治44年(1911年)になってようやく領事裁判権は撤廃されたらしい。外国人判事任用は、大隈の前にも鹿鳴館外交で悪評のあった井上馨(かおる)が推進して失敗していたそうです。結局、外国人判事任用は実現せずに済んだらしい。
■それはともかく、足を失って外務大臣を退いた大隈は、明治31年(1898年)に板垣退助(たいすけ)らと憲政党を結成します。そして114年前の今日、同年6月30日に、日本で最初の政党内閣を組閣したそうです。それまでは薩長藩閥の内閣ですが、佐賀閥からは初めての首相だったらしい。
■では、大隈重信の首相就任の日を祝いつつ、雑学クイズです。大隈重信は首相として2つの新記録を保持しているそうです。それは次のどれとどれでしょうか?
[い]最初に就任したとき、新聞の世論調査でいちばん人気が高かった
[ろ]いちばん多くの大臣が交替した内閣だった
[は]退任したときの年齢がいちばん高齢だった
[に]いちばん若い大臣がいた内閣だった
[ほ]2度の総理大臣をつとめたがその間隔がいちばん長かった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]と[ほ]が正しい
説明:[は]退任したときの年齢がいちばん高齢だった(○)
■退任したとき、78歳だったそうです。これは歴代60人の首相経験者の中ではいちばんの高齢だったらしい*2。ちなみに第2位は終戦時の総理鈴木貫太郎(かんたろう)で77歳。そのあとに76歳で犬養毅(つよし)と吉田茂(しげる)が続きます。犬養毅は76歳11ヶ月半、吉田茂は76歳2ヶ月半ぐらいですから、第3位は5・15事件で暗殺された首相のほうですね。
□ここ20年ほどを眺めますと、宮沢喜一(きいち)の73歳が最高齢ですね。福田康夫(やすお)72歳、村山富市(とみいち)71歳が続きます。
□総理退任時の年齢が若いほうでいえば、近衛文麿(このえ ふみまろ)が50歳で辞めています。複数の内閣を組織した場合には、いちばん最後の退任時の年齢を比較するという条件で調べました。最近では安倍晋三(しんぞう)が53歳という若さで辞めています。
[ほ]2度の総理大臣をつとめたがその間隔がいちばん長かった(○)
■間隔をおいて総理大臣をつとめた人は、伊藤博文/松方正義(まさよし)/山縣有朋(やまがた ありとも)/大隈重信/桂太郎/山本權兵衛(ごんべえ、権兵衛)/若槻禮次郎(れいじろう、礼次郎)/近衛文麿/吉田茂がいます。急死などで閣僚が総理を臨時に兼務した例は除いています。
□大隈重信は、明治31年(1898年)6月30日〜11月8日の短期間で第一次大隈内閣を組閣し、16年後の大正3年(1914年)4月16日〜大正5年(1916年)10月9日までに第二次大隈内閣を組閣しています。第一次が満60歳のとき、第二次が満76歳〜78歳にかけてですね。
□おそらく第2位なのは山本權兵衛です。第一次内閣は大正3年(1914年)4月16日で退任し、大隈重信の第二次内閣にバトンを渡しています。第二次内閣は大正12年(1923年)9月2日に組閣されました。10年弱の間隔があいています。
■大隈重信は大正11年(1922年)に亡くなり、国民葬でおくられたそうです。1か月もたたないうちに、元老であり、明治大正の政界に影響力を行使した山縣有朋の国葬がとりおこなわれたらしい。大隈重信の葬儀には一般民衆も多く参列したようです。これに対し、山縣有朋は、晩年に「宮中某(きゅうちゅうぼう)重大事件」などに関わったことから国民の人気がなかったらしい*3*4。役人や軍人ばかりが参加したといわれます。大隈重信の葬儀には「民」が来たから国民葬。山縣有朋は「民」が抜けた葬儀だから国葬と新聞に悪口を書かれたとのこと。
◆参考*1:HP「大隈重信 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
◇*2HP「内閣総理大臣の一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
◇*3HP「宮中某重大事件 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◇*4HP「第3代内閣が組閣された日。3人目の総理大臣って誰だっけ?」
http://blog.q-q.jp/200912/article_30.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
国民葬と国葬・・・・・こんな皮肉をかける新聞も減った気がしますね〜
最近は短命すぎて覚えきれないし、一度やめたら二度と表に出てこない感じで、間が空いた後、二度のお勤めをした人って他にいましたっけ?
ねこのひげ
2012/07/01 05:05
コメントをありがとうございます。

 ホントに最近は短命ですね。現在の内閣も短命の予感がしますし。

 いっそ、サッカーや野球、民間企業みたいに、外国人指導者を金で雇ったらどうでしょうか。
 クリントン君(旦那のほう)やサルコジ君は閑そうです。候補にあげられるかも。ゴルバチョフ君を雇って、4島返還のキッカケをつかむというのはどうかな。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/07/01 20:41

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