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zoom RSS 上野戦争で彰義隊を指揮した天野八郎は、金魚売りに変装して逃げ延びたの?

<<   作成日時 : 2012/06/13 08:27   >>

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★歴史★
問題:1868年(慶応(けいおう)4年)の2月12日。鳥羽伏見の戦いから江戸に戻っていた徳川慶喜(よしのぶ)は、上野の寛永寺に蟄居します。幕臣のあいだでは、徹底抗戦を叫ぶ者もいて、だんだんきな臭くなってきます。
■武力による抵抗を考えた人たちは、2月23日に上野に集まり、慶喜の警護もかねた彰義隊を結成します。頭取に選ばれたのは渋沢成一郎(せいいちろう)という人物。元は農民です。縁あって一橋藩の慶喜に仕え、能力を認められ、慶喜が将軍に就任すると奥右筆(おくゆうひつ)に任じられています。奥右筆は、「若年寄の下で機密文書の作成・記録などにあたった役」だそうです。けっこう偉いですよね。農民出身なのに大出世です。ちなみに「彰義」隊とは、「大義をあきらかに(彰かに)する」という意味があるらしい。
■なお、渋沢成一郎は、渋沢栄一の従兄弟だそうです。明治維新以後も生きて、自分も実業家として成功した人物らしい。頭の回転のはやい実務家肌の人だったようです。
■4月11日に江戸城が無血開城されます。同時に慶喜も上野から水戸藩に引っ越しました。彰義隊は上野に残っています。結成当初は数十人だった彰義隊です。時が経つにつれ、官軍に一泡吹かせたいという浪人下級武士などが集まり、千人を超える大所帯になっていたらしい。
■隊の内部では意見が割れていたようです。渋沢成一郎は徹底抗戦は避けたいと思っていたらしい。せっかく無血開城したのに江戸で戦さをしたのでは、何の意味もない。副頭取である天野八郎(あまのはちろう)という人物はいちばんの過激派であり、主戦論だったらしい。天野派の一部は頭取の渋沢を暗殺しようとしたそうです。渋沢は彰義隊を離脱します。
■旧幕府は、最初は江戸市中取締の役目を彰義隊にまかせていたらしい。勝海舟や西郷隆盛もそれを認めていたようです。新政府は、西郷よりもずっと彰義隊を危険視していたらしい。東征軍の西郷の権限を解除し、かわりに大村益次郎(ますじろう)を京都から派遣します。5月1日には彰義隊の江戸市中取締の任務を解きます。新政府自身が彰義隊の武装解除にあたることを布告します。こぜりあいを重ね、いよいよ7月4日に上野戦争が起こります。
■上野戦争はご存じのとおり、彰義隊の敗北に終わります。寛永寺もボロボロになってしまったらしい。では、敗軍の将である天野八郎はどうなったのでしょうか? 次のうちで正しい記述を選んで下さい。
[い]上野戦争においてたった1人で突撃し、多数の銃弾を受けて倒れた
[ろ]敗色濃厚となった寛永寺で割腹自殺を遂げた
[は]しばらく逃げ回ったが捕縛され、獄死した
[に]金魚売りに変装して逃げ延び、会津若松城にたどりつき、会津戦争も戦った
[ほ]降伏して助命され、のちに新政府の役人になった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]しばらく逃げ回ったが捕縛され、獄死した
説明:参考資料*2によるとそういうことらしい。
■負け戦のなか、血路を開いて逃げ延びた天野八郎は、本所石原町の炭屋石原文次郎の家に身をひそめたそうです。きっと指名手配を受けていたのでしょうが、平気で町中を歩き、同志達と再挙の相談をしていたとのこと。
■彰義隊の敗北から約2か月後の西暦1868年8月30日。仲間の大塚霍之丞という者が訪れます。奥座敷に通し、食事をとらせていると、抜刀した者が5〜6名踏み込んできたとのこと。はっと思った八郎は、二階から屋根に上がって見渡します。ややや。炭屋の周辺は、新政府軍の70〜80名ほどが包囲していたそうです。
■八郎は屋根づたいに跳躍して逃げようとします。運悪く一発の銃弾が額をかすめます。目まいを起こし、どっと地上に落下します。そこを捕らえられてしまいます。
■捕縛された八郎は、日比谷御門内にある本多侯の邸内にある糾問所の獄につながれます。環境がかなり悪かったらしい。風邪をこじらせ、1868年12月21日に獄死したそうです。
■なお、金魚売りに身をやつしたというのは、天野八郎をモデルにつくられた芝居の中ではあったらしい。「皐月晴上野朝風(さつきばれ うえののあさかぜ)」という演目だそうです。五代目尾上菊五郎が演じたらしい。金魚屋の手代に化けているという設定にしたそうです。「事実と異なる」と彰義隊の生き残りから文句を言われたらしい。
■天野八郎が獄中で書き残した言葉に「徳川氏の柔極まるを知る」というのがあるらしい。「柔」とは「剛」の反対です。剛の者の反対語が柔の者なのかな。上野戦争のとき、黒門口を守ろうとした八郎は、旗本など40名余りをつれて上野山王台をかけあがったらしい。さぁ一戦するぞと後ろを振り向いたら、誰もいなかったとのこと。喜劇映画みたいだな。旗本というのは戦国時代には大将を守るいちばん勇猛な連中のはずです。それも逃げちゃったというのは、なんだか情けないですね。
◆参考*1:HP「天野八郎 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E5%85%AB%E9%83%8E
◇*2書籍「日本史人物逸話事典」文庫初版41〜42頁、鈴木亨編著、ISBN4-05-901109-6、学習研究社

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
この上野の山の戦いを見ていた町人によると、戦うのにへっぴり腰で、これじゃあ、侍の世も終わるわけだと思ったそうです。

江戸時代のなかばごろになると、腰に差している刀が重いと言うので、軽量で細身の刀替えたり、竹光を差していた旗本がいたそうです。
ねこのひげ
2012/06/14 06:47
コメントをありがとうございます。

 Wikipediaの上野戦争の項によれば、彰義隊側には266名の死者が出ているとのこと。数字によれば、抵抗するポーズだけではなかったらしい。

 そのわりには、上野山王台への突撃では、ほとんどの人は「後ろへ突撃」してしまったようです。なんだか変ですね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/06/14 07:29

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