足利義満(よしみつ)の命日。天皇になろうとしていたの?
●●●●●★歴史★●
問題:足利幕府の3代目はご存じの足利義満です。金閣寺を建てさせた人物です。北山文化を開花させた人物です。南北朝を合一した人物です。日明貿易の道をつけた人物でもあります。
■正平(しょうへい)13年[南朝]8月22日。西暦では1358年9月25日に2代将軍義詮(よしあきら)の息子として生まれました。その110日前の1358年6月7日に、乱世の英雄にして初代将軍となった足利尊氏(たかうじ)が亡くなっています。生まれ変わりかな。
■死んだのは応永(おうえい)15年5月6日。西暦でいえば1408年の5月31日です。604年前の今日、足利義満は他界したらしい。
■本日は室町幕府の権力強化に成功した足利義満の祥月命日にちなみ、三代目将軍についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか? (正解は複数かも)
[い]室町幕府という名前は足利義満が命名した
[ろ]風景を持ち帰れという意味不明の命令を下したことがある
[は]足利幕府でいちばん長く将軍職をつとめた
[に]服装や時間にうるさかった
[ほ]天皇にとってかわろうとしたから暗殺されたという説がある
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)
●●●●●★歴史★●
正解:[ろ]と[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]室町幕府という名前は足利義満が命名した(△)
■Wikipediaの義満の項には次のように記されています。「義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は『室町殿』とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として『室町幕府』と呼ばれることになった」。「わが政権は室町幕府と呼ぶことにしよう」と義満が思ったわけではないようです。のちに「花の御所」と呼ばれる邸宅を北小路室町に建てたので、後世の学者が室町幕府と呼ぶようになったらしい。ちなみに北小路室町は、現在の京都御所の北西の隅に近いらしい。烏丸通をはさんだ西隣のあたりだそうです。
[ろ]風景を持ち帰れという意味不明の命令を下したことがある(○)
■義満が小さいころは、まだ政権が安定せず、いろいろ苦労もあったらしい。康安(こうあん)元年[北朝](1361年)には有力者細川清氏(きようじ)の反乱により、一時京都から避難して播磨に逃れ、赤松氏の庇護を受けていたらしい。
□翌年に乱が平定され、京都に戻ることになります。京都へ帰る道すがら、摂津の琵琶塚に宿泊します。池がつくられ木立をめぐらせて風雅な雰囲気の場所だったらしい。たまたま月も煌々(こうこう)と冴え、満潮の海を美しく照らしています。義満は心を動かされ、「お前たち、この風景をかついで京都に持ち帰れ」とのたまわったらしい。将軍の子らしい大言だと周囲は驚いたそうですが。おそらく満3歳ぐらいだったのでしょう。
□ちなみに琵琶塚は現在の兵庫県神戸市兵庫区内だそうです。いまでもそんなに美しいのかな。
[は]足利幕府でいちばん長く将軍職をつとめた(×)
■足利幕府でいちばん長くつとめ、金メダルを得たのは、第4代将軍である義持(よしもち)です。28年4か月とのこと。金閣寺の義満は26年で、わずかに及ばず銀メダル。銅メダルは13代(12代とも)将軍の足利義晴(よしはる)で25年。銀閣寺の義政は24年8か月で、わずかに及ばずメダルを逃しています。
□なお足利将軍家は義稙(よしたね)が義材(よしき)と同一人物で2度就任しているため、16代15人と勘定する人たちもいます*3。この説に従うと足利義晴は13代目になります。15代までと勘定する人にとっては13代目は義輝(よしてる)、12代目が義晴です。義輝は例の剣豪将軍ですね。
□120530現在、Wikipediaの記事の中では統一がとれていません。素人の読者としては混乱させられます。
[に]服装や時間にうるさかった(○)
■足利義満について同時代の守護大名大内義弘(よしひろ)が書いている文によれば、義満は「強い者には弱く、弱い者には強く」あたる性格だったそうです。生まれついての政治家なのかな。傲岸さと卑屈さが同居していると評されることがあるらしい。
□細かいことにうるさい人だったのかもしれません。時間厳守はうるさかったらしい。遅刻した者は厳しく処分されたそうです。弱い者だと遅刻1回で失職、強い者だと遅刻1回なら叱責ぐらいで済んだのかな。服装規定を厳守するように部下に徹底しており、おかげで側近たちは毎月直垂(ひたたれ)という武家装束を新調させられていたとWikipediaには記されています。
[ほ]天皇にとってかわろうとしたから暗殺されたという説がある(○)
■参考資料*2によれば、「足利治乱記」という本に次のように記されているらしい。義満が太政大臣になろうとした時、「公家の最高官職に武家がつくのは前例がない」と、公家たちが難色を示したらしい。義満は、「それならば、鎌倉公方の足利氏満を将軍とし、斯波・細川・畠山・六角・山名を五摂家(ごせっけ)に、土岐・赤松・仁木・京極・大内・一色・武田を七清華(しちせいが)にして、清和天皇の子孫である自分が天皇になるまでだ」とうそぶいたそうです。仰天した朝廷はただちに彼を太政大臣に補任したらしい。なお、五摂家・七清華というのは、家格の高い公家たちだそうです。
□このとき、義満の性格の傲慢さが表面に出たのかもしれませんね。なお、太政大臣に武家がつくのは前例がないとのことですが、平清盛は太政大臣なっているらしい。本来皇族・摂家・清華からしかなれない太政大臣に武士がなっている。このあたりから平清盛は白河法皇のご落胤であるという説がささやかれているそうです。
□上のような逸話があるせいでしょうか。義満は天皇になろうとしていたのではと疑う説も生まれたらしい。Wikipediaによれば、海音寺潮五郎(ちょうごろう)や井沢元彦(もとひこ)という作家は、義満は皇位簒奪を阻止するために暗殺されたのではないかという意見を提示しているとのこと。井沢元彦氏は猿楽師の世阿弥(ぜあみ)と公卿の二条満基(みつもと)の共謀で暗殺されたと主張しているらしい。
□まったくの余談です。世阿弥の名前の「世」は「ぜ」と濁って読みます。漢和辞書「字通」などをみても、「ゼ、ぜ」という濁りのある読みは見当たりません。濁りのある読みは足利義満の指示によるものだとWikipediaの世阿弥の項にありました。そういえば能楽師の流派、観世も「かんぜ」と濁りますね。
◆参考*1:HP「足利義満 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80
◇*2書籍「世界人物逸話大事典」初版949頁、朝倉治彦・三浦 一郎編、ISBN4-04-031900-1、角川書店
◇*3HP「足利将軍一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7
ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧
問題:足利幕府の3代目はご存じの足利義満です。金閣寺を建てさせた人物です。北山文化を開花させた人物です。南北朝を合一した人物です。日明貿易の道をつけた人物でもあります。
■正平(しょうへい)13年[南朝]8月22日。西暦では1358年9月25日に2代将軍義詮(よしあきら)の息子として生まれました。その110日前の1358年6月7日に、乱世の英雄にして初代将軍となった足利尊氏(たかうじ)が亡くなっています。生まれ変わりかな。
■死んだのは応永(おうえい)15年5月6日。西暦でいえば1408年の5月31日です。604年前の今日、足利義満は他界したらしい。
■本日は室町幕府の権力強化に成功した足利義満の祥月命日にちなみ、三代目将軍についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか? (正解は複数かも)
[い]室町幕府という名前は足利義満が命名した
[ろ]風景を持ち帰れという意味不明の命令を下したことがある
[は]足利幕府でいちばん長く将軍職をつとめた
[に]服装や時間にうるさかった
[ほ]天皇にとってかわろうとしたから暗殺されたという説がある
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)
●●●●●★歴史★●
正解:[ろ]と[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]室町幕府という名前は足利義満が命名した(△)
■Wikipediaの義満の項には次のように記されています。「義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は『室町殿』とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として『室町幕府』と呼ばれることになった」。「わが政権は室町幕府と呼ぶことにしよう」と義満が思ったわけではないようです。のちに「花の御所」と呼ばれる邸宅を北小路室町に建てたので、後世の学者が室町幕府と呼ぶようになったらしい。ちなみに北小路室町は、現在の京都御所の北西の隅に近いらしい。烏丸通をはさんだ西隣のあたりだそうです。
[ろ]風景を持ち帰れという意味不明の命令を下したことがある(○)
■義満が小さいころは、まだ政権が安定せず、いろいろ苦労もあったらしい。康安(こうあん)元年[北朝](1361年)には有力者細川清氏(きようじ)の反乱により、一時京都から避難して播磨に逃れ、赤松氏の庇護を受けていたらしい。
□翌年に乱が平定され、京都に戻ることになります。京都へ帰る道すがら、摂津の琵琶塚に宿泊します。池がつくられ木立をめぐらせて風雅な雰囲気の場所だったらしい。たまたま月も煌々(こうこう)と冴え、満潮の海を美しく照らしています。義満は心を動かされ、「お前たち、この風景をかついで京都に持ち帰れ」とのたまわったらしい。将軍の子らしい大言だと周囲は驚いたそうですが。おそらく満3歳ぐらいだったのでしょう。
□ちなみに琵琶塚は現在の兵庫県神戸市兵庫区内だそうです。いまでもそんなに美しいのかな。
[は]足利幕府でいちばん長く将軍職をつとめた(×)
■足利幕府でいちばん長くつとめ、金メダルを得たのは、第4代将軍である義持(よしもち)です。28年4か月とのこと。金閣寺の義満は26年で、わずかに及ばず銀メダル。銅メダルは13代(12代とも)将軍の足利義晴(よしはる)で25年。銀閣寺の義政は24年8か月で、わずかに及ばずメダルを逃しています。
□なお足利将軍家は義稙(よしたね)が義材(よしき)と同一人物で2度就任しているため、16代15人と勘定する人たちもいます*3。この説に従うと足利義晴は13代目になります。15代までと勘定する人にとっては13代目は義輝(よしてる)、12代目が義晴です。義輝は例の剣豪将軍ですね。
□120530現在、Wikipediaの記事の中では統一がとれていません。素人の読者としては混乱させられます。
[に]服装や時間にうるさかった(○)
■足利義満について同時代の守護大名大内義弘(よしひろ)が書いている文によれば、義満は「強い者には弱く、弱い者には強く」あたる性格だったそうです。生まれついての政治家なのかな。傲岸さと卑屈さが同居していると評されることがあるらしい。
□細かいことにうるさい人だったのかもしれません。時間厳守はうるさかったらしい。遅刻した者は厳しく処分されたそうです。弱い者だと遅刻1回で失職、強い者だと遅刻1回なら叱責ぐらいで済んだのかな。服装規定を厳守するように部下に徹底しており、おかげで側近たちは毎月直垂(ひたたれ)という武家装束を新調させられていたとWikipediaには記されています。
[ほ]天皇にとってかわろうとしたから暗殺されたという説がある(○)
■参考資料*2によれば、「足利治乱記」という本に次のように記されているらしい。義満が太政大臣になろうとした時、「公家の最高官職に武家がつくのは前例がない」と、公家たちが難色を示したらしい。義満は、「それならば、鎌倉公方の足利氏満を将軍とし、斯波・細川・畠山・六角・山名を五摂家(ごせっけ)に、土岐・赤松・仁木・京極・大内・一色・武田を七清華(しちせいが)にして、清和天皇の子孫である自分が天皇になるまでだ」とうそぶいたそうです。仰天した朝廷はただちに彼を太政大臣に補任したらしい。なお、五摂家・七清華というのは、家格の高い公家たちだそうです。
□このとき、義満の性格の傲慢さが表面に出たのかもしれませんね。なお、太政大臣に武家がつくのは前例がないとのことですが、平清盛は太政大臣なっているらしい。本来皇族・摂家・清華からしかなれない太政大臣に武士がなっている。このあたりから平清盛は白河法皇のご落胤であるという説がささやかれているそうです。
□上のような逸話があるせいでしょうか。義満は天皇になろうとしていたのではと疑う説も生まれたらしい。Wikipediaによれば、海音寺潮五郎(ちょうごろう)や井沢元彦(もとひこ)という作家は、義満は皇位簒奪を阻止するために暗殺されたのではないかという意見を提示しているとのこと。井沢元彦氏は猿楽師の世阿弥(ぜあみ)と公卿の二条満基(みつもと)の共謀で暗殺されたと主張しているらしい。
□まったくの余談です。世阿弥の名前の「世」は「ぜ」と濁って読みます。漢和辞書「字通」などをみても、「ゼ、ぜ」という濁りのある読みは見当たりません。濁りのある読みは足利義満の指示によるものだとWikipediaの世阿弥の項にありました。そういえば能楽師の流派、観世も「かんぜ」と濁りますね。
◆参考*1:HP「足利義満 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80
◇*2書籍「世界人物逸話大事典」初版949頁、朝倉治彦・三浦 一郎編、ISBN4-04-031900-1、角川書店
◇*3HP「足利将軍一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7
ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧
この記事へのコメント
彼も、天皇に取って代わろうとした節がありますからね。
先日、剣豪将軍として知られる義輝に関する時代小説を読んだばかりですが、彼が生きていれば室町幕府も違ってきたのかな?と思わせる書き方でしたが・・・・
まあ、尊氏のときから、幕府としては不安定でしたからね。どうかな?ですけどね。
徳川が天下を取ってやっと安定した感じですからね。
昔やっていた「その時歴史が動いた」という番組では、信長の死は公家や僧侶その他の陰謀だったという説を紹介していました。
信長が油断せず、実力で天皇を廃していたら、その後の世の中はどうなっていたのでしょう。模擬実験というか、シミュレーションというか、ちょっと見たいですね。
(^^;)
その足利義満の画像はどこから引用したものですか?教えてください!!
宜しくお願いします。
まことに申し訳ありません。引用元を忘れてしまいました。ひょっとしたら何かの本からだったかもしれません。
Wikipediaだったような気もしましたが、少なくとも141023現在には、異なる画像が使われていました。
お役に立たなくてすみません。
m(_ _)m