町人思案橋・クイズ集

アクセスカウンタ

zoom RSS 悲劇の赤報隊っていつごろ活躍したの?

<<   作成日時 : 2012/05/23 07:21   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 2

画像
★歴史★
問題:赤報隊という言葉を聞いたことがあるでしょうか? うん、どこかで聞いたなと思ったら、朝日新聞阪神支局を襲撃して記者1人を殺した連中が赤報隊と名乗ったらしい。その後朝日新聞名古屋本社社員寮を襲ったり、静岡支局に爆弾を仕掛けたりしたらしい。最後にはリクルートの江副元会長宅も襲撃したとのこと。
■同じ漢字表記同じ読みでもうひとつの赤報隊がいます。こちらは歴史上の存在ではありますが、最近の赤報隊と同様にすでに忘れ去られようとしています。戦前のある時期に活動していた人たちです。活動期間はたいへん短かったらしい。最後には幹部は処刑され、隊は解散したそうです。では、彼らはいつごろ活躍したのでしょうか?
[い]幕末の水戸藩で結成され、万延(まんえん)元年3月3日(1860年3月24日)の桜田門外の変に参加した連中もいる
[ろ]慶応(けいおう)4年(1868年)、戊辰戦争で碓氷峠以西の地を掌握した官軍の先鋒隊
[は]明治10年(1877年)、西郷隆盛の蜂起に呼応して岡山で反乱を起こした不平士族たち
[に]明治17年(1884年)、加波山事件の際に栃木県令三島通庸(つうよう)を暗殺するべく組織された実行部隊
[ほ]明治43年(1910年)に明治天皇暗殺計画を企てた共産主義者たち
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]慶応(けいおう)4年(1868年)、戊辰戦争で碓氷峠以西の地を掌握した官軍の先鋒隊
説明:赤報隊の隊長は相良総三(さがら そうぞう)という人だそうです。本名小島将満(まさみつ)、下総相馬(現茨城県)の裕福な郷士の子として生まれたらしい。若い時から尊攘志士として活動していたようです。東国を歴遊して同志を募ったりしていたらしい。
■江戸の薩摩藩邸にも出入りしており、江戸の騒動で下働きをしたことがあるようです。戊辰戦争が始まる直前、慶應(けいおう)3年12月14日、西暦では1868年1月8日、西郷隆盛や公家の岩倉具視(ともみ)の支援を得て、近江国松尾山の金剛輪寺(こんごうりんじ)において赤報隊が結成されたらしい。
■「赤心を持って国恩に報いる」という意味で赤報隊です。共産主義の赤とは違うわけですね。隊長は相良、公家の綾小路俊実(としみ?)、滋野井公寿(きみとし?)らを盟主として擁立したとWikipediaにはありました。盟主として擁立するという意味は定かではありませんが、要は趣旨に賛同し、看板として利用されることに同意したということかな。
■赤報隊は、1月15日、官軍の先鋒として東山道を江戸へむかいます。東山道は、近江・美濃・飛騨・信濃・諏訪・上野・下野など、海に面していない国々だそうです。関東以北では陸前・出羽など海に接する国々も含まれています。まぁ京都から見れば、東に向かう山の国の道なのかな。
■赤報隊は民心を掌握するために、官軍の許可を得て当年の年貢半減を布告します。税金が半減されるわけですから、これは効きます。共鳴して入隊する農商民が少なくなかったとのこと。まもなく碓氷峠以西の地をほぼ掌握してしまいます。碓氷峠は軽井沢の近くの峠です。アプト式の鉄道で知られていますね。群馬と長野の県境に位置し、太平洋と日本海の分水嶺になっています。
■最初、許可を与えていた官軍幹部たちですが、1月末には半減令の撤回を考えます。民心はどうも徳川幕府から完全に離れているようです。いまさらおいしい餌は不要です。ただでさえ財源不足です。三井組などの商人から借金をしています。返済できるかどうか。年貢の半減は初めから不可能だったのでしょう。
■赤報隊には京都への帰還が命じられたらしい。ところが勢いのついた相良総三の部隊はこれに従わず、なおも江戸を目指して前進したらしい。一番乗りを目指していたのかな。
■これにつけこんだのが官軍幹部たちです。相良総三らを偽官軍として切り捨てることにします。3月2日、相良総三は下諏訪に設置された東山道総督府に出頭したところを捕らえられます。翌日には幹部7人とともに文字通り切り捨てられてしまいます。その日は冷たい雨が降っていたらしい。
■「御一新の時節に乗じ、勅命といつわって官軍先鋒と称し、良民を襲い、金品を貪り、種々の悪業をした」というのが総三たちの処刑理由らしい。総三たちを偽官軍とすることで、年貢半減の公約をなかったものとし、新政府の面目をたもとうとしたと推測されています。
■ひょっとしたら相良総三は初めから重きを置かれていなかったのかもしれません。官軍の幹部たちは、赤報隊に「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにしていたともいわれます。西郷隆盛と岩倉具視の支援っていうのは、なんだったんでしょうね。
◆参考*1:書籍「日本史こぼれ話 近世・近代」新書初版138〜139頁、笠原一男/児玉幸多編、ISBN4-634-60340-3、山川出版社
◇*2HP「赤報隊 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A0%B1%E9%9A%8A

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
先日、この事件を書いた小説を読んだばかりです(^^ゞ
そこでは、相良たちが、先走って年貢の半減などを勝手に決めたことにされてしまったウンヌンとなってましたね。
生き残った若者が、天皇の行幸を迎えるにあたっての複雑な思い苦悩を描いてました。
結局、血気にはやった若者たちが利用されただけでしょうね。
必要ないことがわかってチョンと切り捨てられたと(^_^.)
ねこのひげ
2012/05/23 07:50
コメントをありがとうございます。

 運が悪かったのか、上手に立ち回る狡猾さが不足していたのか。悲劇ですし気の毒ですね。
 歴史の荒波の中に沈んでいったこうした人たちはきっとたくさんいるのでしょう。損な役回りですね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/05/23 21:18

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
悲劇の赤報隊っていつごろ活躍したの? 町人思案橋・クイズ集/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる