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zoom RSS 享保の改革の象徴ともいえる目安箱。当時は単に「箱」と呼ばれていたの?

<<   作成日時 : 2012/04/21 07:18   >>

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★歴史★
問題:享保(きょうほう)6年(1721年)8月、将軍就任5年目、満36歳だった吉宗は、目安箱の制度を設けました。そもそも紀州藩にいたころ、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募っているそうです。下々の声が最高責任者に届くことは大切と考えたのでしょう。江戸でも実施しました。享保の改革のひとつといわれています。
■黒澤明(あきら)の映画「赤ひげ」で知られる小石川養生所は、貧窮の民のための無料漢方病院です。小川笙船(しょうせん)という医者が目安箱に放り込んだ意見が採用されたといわれています。その他にもさまざまな意見が取り入れられたらしい。町火消しの設置、新田開発の開発可能地の発見など、非民主主義の世の中ではありましたが、民衆の意見を吸い上げるのに役立ったようです。
■文化(ぶんか)4年(1807年)の柳多留には、「おだやかさ 雀のあさる 目安箱」という川柳があるらしい。世の中が平穏だと投書も少ないため、雀の遊び場になるのかもしれません。
■本日は目安箱についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか? (正解は複数かも)
[い]箱が設置されたのは現在の有楽町駅あたりで、月に3回の頻度で設置された
[ろ]投じられた意見書はまずお庭番と呼ばれる情報収集組織が検査し、その後将軍に手渡された
[は]江戸時代の意見書は匿名でもかまわなかった
[に]桜田門外の変の志士たちは脱藩届を水戸藩邸内の目安箱に投じた
[ほ]設置された当時は目安箱とは呼ばれていなかった。公式に目安箱と呼ばれたのは明治以降である
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[に]と[ほ]が正しい
説明:
[い]箱が設置されたのは現在の有楽町駅あたりで、月に3回の頻度で設置された(×)
■正しくは、「江戸城辰ノ口の評定所前、現在の東京駅北口あたりで〜」だそうです。毎月2日・11日・21日の月3回設置されたとのこと。その日のうちに回収したらしい。
□箱は白木造りで縦45cm×横75cm×奥行40cmほどだそうです。なかなか大きな物ですね。蓋に10cm四方の穴があいていたとのこと。もちろん鍵が掛けられていました。
[ろ]投じられた意見書はまずお庭番と呼ばれる情報収集組織が検査し、その後将軍に手渡された(×)
■正しくは、「将軍が直接に鍵を開けた」だそうです。意見書は江戸幕府の幹部連中も見ることができなかったそうです。まずは将軍が鍵を開き、中身を調べたらしい。その後、追加の情報収集が必要ならば、お庭番なども動員されたとのこと*1。
[は]江戸時代の意見書は匿名でもかまわなかった(△)
■参考資料*1と*2では、反対の意見が掲載されていました。Wikipediaは、目安箱では匿名は禁止されていたという意見です。住所と氏名の記されていない訴状は破棄されたとのこと。参考資料*4は、「訴状には姓名を記すには及ばす」とされていたという意見です。どちらかわかりません。△にしました。
□18世紀前半に生まれた目安箱は18世紀後半の田沼意次(おきつぐ)のころは、実質的に廃止されていたらしい。意次は自分の悪口が将軍に届くのがいやだったのかもしれません。前記の川柳にもあるとおり、19世紀前半の文化のころには復活しています。幕末にも生きていて、明治6年(1873年)6月10日まで制度としては続いていたそうです。このとき、明治政府は、意見があるなら建白書として役所に提出しろといって下意上達の窓口を閉じてしまったとのこと。
[に]桜田門外の変の志士たちは脱藩届を水戸藩邸内の目安箱に投じた(○)
■東京の小石川後楽園は、旧水戸藩の庭だそうです。庭は黄門様こと徳川光圀(みつくに)の時代に完成したらしい。水戸藩の上屋敷はここにあったわけですね。その邸内にも目安箱があったようです。参考資料*4によれば、志士たちは、桜田門外の変に出動するときに、脱藩届けを投げ込んでいったらしい。ちょっと変わった使いかたですね。
[ほ]設置された当時は目安箱とは呼ばれていなかった。公式に目安箱と呼ばれたのは明治以降である(○)
■江戸時代の公式文書では、単に「箱」と呼ばれ、目安箱という言葉は使われていないとのこと*1。「徳川実紀(とくがわじっき、江戸幕府の公式記録)」の中でも、「名もなき捨て文を防止するために、評定所に「箱」を設置した」という意味の記述があるとのこと。ただし、川柳では「目安箱」といっていますから、下々は使っていた言葉なのでしょう。明治政府はそれを採用したのかもしれません。
◆参考*1:HP「目安箱 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E5%AE%89%E7%AE%B1
◇*2HP「徳川吉宗 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
◇*3HP「映画「赤ひげ」のモデル小石川養生所。入院費用はいくらかかった?」
http://blog.q-q.jp/200609/article_104.html
◇*4書籍「幕末明治風俗逸話事典」初版56〜58頁、紀田順一郎(きだ じゅんいちろう)著、ISBN4-490-10338-7、東京堂出版

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
『暴れん坊将軍』で、吉宗自らが、箱を開けて中の文を読んでいるシーンがありましたから、あそこだけは、史実に忠実だったということですね。

明治政府はやめたわけですか?
民主主義と言いながら、かえって封建制度のほうがよかったかも?という実例のようですね。
ねこのひげ
2012/04/22 06:55
コメントをありがとうございます。

 明治時代には建前上は天皇がトップなのでしょう。天皇が直接に元老たちの悪口を読むことになります。長州や薩摩その他の連中はそれが嫌だったのかもしれません。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2012/04/22 18:42
「目安箱」は吉宗将軍が庶民の愚痴を読むが、明治天皇には読ませたくはない。うーん理屈はわかるけど(笑)
sadakun_d
2012/05/21 08:34
コメントをありがとうございます。

 いまは地方自治体によっては目安箱を置くところもあるようです。ちゃんとした意見も集まるのかな。それともほとんど無意味な愚痴とか中傷ばかりなのかな。
(^^;)
sadakun_d様<素町人
2012/05/21 16:00

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