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zoom RSS 日本初のチャリティバザーの開催者、大山捨松はインフルエンザで落命したの?

<<   作成日時 : 2012/02/18 22:06   >>

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★歴史★
問題:大正8年(1919年)の今日、2月18日。おそらくは火曜日だったと思われます。大山巌(いわお)元帥の未亡人にして赤十字篤志看護会理事、愛国婦人会理事でもあった大山捨松、旧姓山川捨松が亡くなりました*1。
■ご存じのように大山巌は西郷隆盛の従兄弟です。戊辰戦争から陸軍で活躍し、日清日露の国難を勝利に導いた人物です。先日の弊クイズでもご紹介したとおり、西南戦争の直前には、最新式スナイドル銃の弾丸製造に必要な装置を鹿児島から大阪に移送させています*3。苦しい立場ですね。大山巌は日本国に対して忠義を尽くしたようです。残念ながら故郷の人々や従兄弟とは敵対することになったようですが。
■アドミラル東郷こと東郷平八郎と並び称せられ、「海の東郷、陸の大山」とうたわれました。元老でありながら政治的な野心はまるでなかったらしい。長州出身で陸軍のもうひとりの元老、山縣有朋(ありとも)が何度も宰相を経験しているのとはだいぶ異なっています。大山が大正5年(1916年)に満74歳で亡くなった際には国葬が営まれました*2。
■その後妻が山川捨松です。安政7年2月24日に生まれています。西暦では1860年3月16日ですね。彼女が生まれた翌日。3月17日には勝海舟や福沢諭吉らを乗せた咸臨丸がサンフランシスコに到着しています。さらにそれから1週間後、3月24日には桜田門外で井伊大老が水戸浪士たちに暗殺されています。
■激動の時代に生まれた彼女の人生も、なかなか激しいものだったようです。会津藩の家老の家で二男五女の末娘として生まれたとのこと。生まれたときにはすでに父は亡く、祖父や長兄が父親がわりとなってくれたようです。それでも1000石の禄がありましたから、経済的な不安はなかったらしい。
■慶應(けいおう)4年(1868年)8月、捨松が8歳のとき、戊辰戦争で会津若松城に官軍が迫ってきます。敵の指揮官は土佐の板垣退助(たいすけ)と薩摩の伊地知正治(いぢちまさはる)だそうです。大砲がどんどん撃ち込まれます。8歳の捨松もタスキを掛けて城内を走り回り、不発弾処理にあたります。「焼玉押さえ」と呼ばれる作業とのこと。着弾しながら爆発しなかった金属の塊に水を含ませた布団をかぶせるというものらしい。冷温停止状態にするのかな。この作業の最中、父がわりになってくれていた長兄山川浩(ひろし)の妻が暴発を受けて死んでしまいます。捨松自身も重傷を負いますが、大きな後遺症はなく、助かります。
■明治維新後、会津若松藩は23万石から陸奥斗南3万石へと配置換えになります。懲罰ですね。いきなり貧しくなった家老の山川家では、末娘を里子に出すことにします。キリスト教関係者の紹介でフランス人家庭に引き取られます。
■捨松が11歳のとき、明治4年(1871年)のころですね。北海道開拓使次官の黒田清隆(きよたか)の提案により、アメリカに留学生を送り、北海道開拓に必要な技術・知識を学ばせる計画が持ち上がります。黒田の提案により、留学生は男女若干名となったらしい。
■現在でこそ、バイトの募集で男女若干名はごく普通ですが、明治初年にはきわめて珍しい形だったようです。アメリカ視察を通じて働く女性の能力を認めた黒田ならではの提案だったようです。
■この計画に山川家の健次郎という子供が応募します。第1回の募集で採用されたらしい。ところが女子の応募は皆無で2回目の募集がなされます。このとき、山川家ではフランス人家庭にいた捨松を応募させることにします。西洋式の生活習慣に慣れていますし、兄が一緒に渡米するのであれば、少し安心できます。
■2回目の女性応募者5人は全員合格し、山川捨松はわずか11歳でアメリカに渡ることになります。なお、このとき一緒に留学したのが津田塾大学の創立者津田梅子らだったようです。津田梅子はわずかに満6歳。もうじき7歳だったというのですから、いまの芦田愛菜ちゃんよりも1歳ぐらい若い留学生ですね。
■なお、ここまでずっと捨松と呼んできましたが、彼女の最初の名前は「さき」というものらしい。岩倉具視(ともみ)らの使節に同行して日本を離れるとき、実の母親は「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから捨松と名前を変えさせたそうです。
■本日は明治の日本で輝いた女性知識人、大山捨松の93回目の命日にちなみ、彼女の劇的な生涯についての雑学クイズです。次の記述のうち、正しいものはどれでしょうか?(正解は複数かも)
[い]後に結婚することになる大山巌は義姉の仇だった
[ろ]アメリカでは英語がなかなか上達せずに苦労し、留年を繰り返した
[は]鹿鳴館で日本初のチャリティバザーを開催したら、3日間で鹿鳴館がもう1軒建つぐらいの金を集めた
[に]津田梅子とはその後反目することになり、絶交状態のまま生涯をおえた
[ほ]徳富蘆花(ろか)の「不如帰」の冷酷な継母のモデルであった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[は]、[ほ]が正しい
説明:[い]後に結婚することになる大山巌は義姉の仇だった(○)
■義姉は会津若松城の砲撃の際に「焼玉押さえ」の作業中に戦死しました。山川さき(捨松)自身も重傷を負いました。このときの官軍の砲兵隊長は大山弥助(やすけ)、のちの大山巌その人だそうです。
□大山巌は薩英戦争の際に敵の軍事力に衝撃を受けます。幕臣江川英龍(ひでたつ、太郎左衛門)の門戸を叩いて砲術を学び、それまでの大砲の改良なども行なったらしい。彼の設計した大砲は「弥助砲」と呼ばれたとのこと。
□アメリカから戻って来ていた山川捨松に、明治16年(1883年)、大山巌が求婚します。捨松が満23歳のころです。このとき山川家では即座に断ったらしい。会津若松城での記憶が生々しく、とても頷けない話だったのでしょう。
□大山は、当時農商務卿だった西郷従道(つぐみち)を使者に立て、何度も山川家を説得させたらしい。従道は隆盛の弟であり大山巌の従兄弟です。「山川家は賊軍の家臣ゆえお断り申す」と断られたとき、「大山も自分(従道)も逆賊(隆盛)の身内でごわす」といってのけたらしい。何度も足を運ぶ西郷従道と大山巌の熱意が通じたのか、最後は「本人次第」という回答を得たそうです。
□捨松はアメリカ流にデートを提案したそうです。「閣下のお人柄を知りたい」というわけですね。で、親子ほども年の違うカップルは六本木ヒルズの夜景が綺麗なレストランで食事という初デートに臨んだらしい。ところが薩摩の大山巌と福島・青森が故郷である捨松では日本語が通じにくかったようです。
□で、2人は英語で会話したらしい。どちらも留学経験がありますので英語での会話は日本語よりも意志の疎通ができたようです。そのうちに捨松は大山巌の人柄に惹かれていくそうです。明治16年(1883年)の暮れ、完成したばかりの鹿鳴館で陸軍卿大山巌と山川捨松の結婚披露宴が催されたようです。
[ろ]アメリカでは英語がなかなか上達せずに苦労し、留年を繰り返した(×)
■捨松はとても成績が良かったそうです。コネチカット州ニューヘイブンのヒルハウス高校を卒業後、ニューヨーク州のヴァッサー大学に進んだとのこと。ヴァッサー大学は全寮制の女子大学で、「あしながおじさん」を書いた女流小説家ジーン・ウェブスターなど、女性知識人を多数輩出している学校だそうです。
□大学でも成績優秀な捨松は、2年生のときには学生会の学年会長に選ばれたとのこと。卒業時には卒業生総代の1人に選ばれたそうです。
□捨松には大学卒業時に帰国命令が出ていたそうですが、捨松は滞在延長を希望し、許可されています。コネチカット看護婦養成学校に約1年通ったとのこと。この前年にアメリカ赤十字社が設立されており、捨松はその活動に強い関心を寄せていたそうです。
□捨松が日本に戻って来たのは明治15年(1882年)のことでした。
[は]鹿鳴館で日本初のチャリティバザーを開催したら、3日間で鹿鳴館がもう1軒建つぐらいの金を集めた(○)
■結婚後の話です。有志共立東京病院という私立の病院を見学したところ、看護婦は皆無で男性の雑用係が数人いるだけでした。この病院は現在の東京慈恵会医科大学付属病院だそうです。
□捨松は女性の職場確保のためにも、また患者のためにも看護婦が必要であると院長の高木兼寛(かねひろ)に語ったそうです。高木兼寛もイギリスの病院に留学した経験のある人で、看護婦の必要性はおおいに認めるがなにぶん先立つものが…という答えだったらしい。
□意を決した捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって鹿鳴館慈善会を開いたそうです。これが日本初のチャリティーバザーとなったらしい。捨松はプロデューサーとして商品仕入れ・告知・販売まで陣頭指揮をしたとのこと。一緒に働いてくれたのは明治政府の高官連の細君たちだそうです。
□美人で頭の切れる捨松は、販売現場でも人気だったらしい。「これはいくらかね」。「4円です」。「ではこれで」と5円札を出されると、「慈善ですからお釣りは出ませんよ」と艶然と微笑んだらしい。お客はそれで諦めるそうです。たったの3日間で鹿鳴館がもうひとつ建つぐらいの利益をあげ、その全額を有志共立東京病院に寄付したとのこと。この資金をもとに2年後に有志共立病院看護婦教育所が設立されたそうです。
[に]津田梅子とはその後反目することになり、絶交状態のまま生涯をおえた(×)
■津田梅子とは生涯の友だったようです。津田梅子が女子英学塾、のちの津田塾大学を設立すると、ボランティアで奉仕し、顧問をつとめたり理事や同窓会長をつとめるなど、さまざまな形で支援しているとのこと。津田梅子が女手ひとつで教育機関をつくり、苦しみながらもついに成功させることができたのは、父親である津田仙(せん)だけでなく、捨松やアメリカ時代からの友人アリス・ベーコン、瓜生繁子(しげこ)、その他多くの賛同者たちの助けがあったからだといわれています。
[ほ]徳富蘆花(ろか)の「不如帰」の冷酷な継母のモデルであった(○)
■「不如帰」の主人公浪子のモデルは大山巌の先妻の長女信子だといわれています。物語の中で浪子は結核のために結婚生活を引き裂かれ、実家に戻りはしたものの非情な継母によって離れに押し込まれ、淋しく若い命を絶つことになるそうです。
□この非情な継母のモデルは大山捨松であるとされ、当時からいわゆる風評被害にあってきたらしい。匿名の投書に誹謗中傷が書き連ねられているなんてこともあったようです。
□Wikipediaによれば実際は小説の逆であり、信子が発病したのちに離縁を一方的に申し入れてきたのは夫側の三島彌太郎とその母親だったとのこと。悩む捨松を見るに見かねた津田梅子は三島家に乗り込んで姑に猛烈に抗議したそうです。
□捨松は看護婦の資格を活かし、自ら看病にあたったとのこと。大山巌が日清戦争から戻ると、信子と小康状態を見計らい、3人で関西旅行までしているそうです。捨松は大山巌の連れ子たちからママちゃんと呼ばれて慕われていたとのこと。
□徳富蘆花は、大山捨松が死ぬ直前に公に謝罪したらしい。「『不如帰』の小説は姑と継母を悪者にしなければ、人の涙をそゝることが出来ぬから誇張して書いてある」とのこと。捨松に対して「お気の毒にたえない」と言っているそうです。現代ならば名誉毀損で多額の慰謝料をとられるところでしょうね。
□大正8年(1919年)の冬は、ご存じのインフルエンザ、スペイン風邪が猛威を振るったころです。Wikipediaによれば感染者は6億人。死者は4000万〜5000万人ともいわれます。大山捨松もその犠牲となり、満58歳でこの世を去りました。
◆参考*1:1HP「大山捨松 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E6%8D%A8%E6%9D%BE
◇*2HP「大山巌 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B7%8C
◇*3HP「西南戦争が始まった日。西郷軍の死者は官軍の10倍に及んだの?」
http://blog.q-q.jp/201202/article_12.html
◇*4HP「津田梅子が津田塾を創設した日。源氏物語をポルノと断じたのはホント?」
http://blog.q-q.jp/200709/article_38.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
波乱万丈の人生ですね。
来年度のNHK大河ドラマの主人公新島八重も、悪妻、烈婦と言われていたそうですから、あの時代に女性が活躍するとかなり風当りが強かったようですね。
風評被害というのは、いまも変わりませんけどね。
インフルエンザは、ホンコン風邪という名称から、風邪のひとつと誤解されがちですが、立派な伝染病なんですよね。
ねこのひげ
2012/02/19 06:02
コメントをありがとうございます。

 捨松の人生58年は今の平均寿命にしてみると短いのですが、ずいぶん内容の詰まった人生だったようです。
 鹿鳴館外交の華として活躍したようですし、大山巌の妻としては二男一女を生み、先妻の残した三女とともに育て上げたようです。興味深い人物ですね。
(^^;)
 
ねこのひげ様<素町人
2012/02/19 20:59

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