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zoom RSS 日本史上最後の仇討ちはいつごろあったの?

<<   作成日時 : 2011/12/18 11:34   >>

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★歴史★
問題:正月に見る初夢は「一富士、二鷹、三茄子」が縁起がいいといわれます。つながりの薄そうなこの3つの物は、日本三大仇討ちに関係しているともいわれます。
■「富士」は源頼朝が富士の裾野で巻き狩りをしている最中に起こった事件です。建久4年5月28日、西暦では1193年6月28日。曾我五郎十郎兄弟が父の仇工藤祐経(すけつね)を殺した仇討ちですね。この仇討ちがなかったら、歌舞伎・浄瑠璃作者たちはネタに困ったことでしょう。曾我物と呼ばれる一分野を形成しているそうです。江戸では正月狂言として必ず新作の曾我物を上演する習わしがあったらしい。「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」という有名な芝居でも、助六は実は曾我五郎、白酒売りは実は曾我十郎なんて設定になっています。
■鷹は家紋に関係しているらしい。播州赤穂藩浅野家の家紋が「丸に違い鷹の羽」だそうです。大石内蔵助(くらのすけ)以下47士が主君の仇吉良上野介(きら こうずけのすけ)の首を取った赤穂浪士の討ち入りです。和暦では元禄15年12月14日、西暦では1703年1月30日です。この事件を題材とした「仮名手本忠臣蔵」は、はずれたことがないという人気の狂言だそうです。関係者は泉岳寺に足を向けて寝られません。
■「茄子」は「伊賀越えの仇討ち」です。剣豪荒木又右衛門が助っ人に立ち、渡辺数馬(かずま)が弟の敵河合又五郎(またごろう)を伊賀国上野の鍵屋の辻で討ち果たした事件です。和暦では寛永11年11月7日、西暦では1634年12月26日ですね。伊賀国は茄子の産地として知られていたとのこと*1。この事件もまた歌舞伎や浄瑠璃に取り上げられ、「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)」、その他の狂言になっています。
■仇討ちは一種の美徳として、江戸時代には奨励もされました。でも明治維新後、野蛮な風習と西洋人に思われたくない新政府の方針で、仇討ち(復讐)禁止令が明治6年(1873年)に施行されます。それまでは、条件が整えばお咎めなしだった仇討ちですが、これ以降はレッキとした犯罪になってしまうわけですね。新政府は戊辰戦争その他で多くの人を殺しています。仇討ちを違法としないと枕を高くして眠れない者が多かったのでしょう。
■本日の問題は、日本史上最後の仇討ちについてです。日本史上最後の仇討ちと呼ばれる事件は、次のどの年に起こったのでしょうか?
[い]明治6年(1873年)
[ろ]明治13年(1880年)
[は]明治35年(1902年)
[に]大正7年(1918年)
[ほ]昭和6年(1931年)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]明治13年(1880年)
説明:明治6年(1873年)に復讐禁止令が出て以来、仇討ちは影をひそめていたそうです。ところが7年経過した明治13年(1880年)になって、埼玉県と神奈川県で1件ずつの仇討ち事件が発生します。世間は驚いたようです。
■そして明治13年(1880年)12月17日。131年前の今日ですね。史上最後の仇討ちと呼ばれてきた事件が起こります。臼井六郎事件と呼ばれます。
■殺されたのは一瀬直久(いちのせ なおひさ?)という判事。殺したのは臼井六郎(ろくろう)、満22歳だそうです。臼井六郎の父、秋月藩(福岡県)の重役臼井亘理(わたり)は、開明派として藩政を進めました。その思想と方針は大久保利通が感心するぐらいに斬新なものだったらしい。
■ありがちなことではありますが、保守的な士族の反感を買います。明治元年(1868年)。干城隊(かんじょうたい)という青年たちに襲撃され、妻ともども斬殺されます。事件の裁判は行われましたがなぜか加害者は無罪であり、臼井家が家禄を減らされるという納得のいかない結果になりました。満10歳だった六郎は、必ず復讐を遂げると心に誓ったようです。
■事件について調べるうちに、自分の標的は父親を殺した一瀬直久であり、母親を殺した萩原静夫(しずお)というものだとわかります。六郎は学問と武芸を磨いて時期を待ちました。
■明治6年(1873年)の復讐禁止令などは、臼井六郎にとってなんの意味もないことだったらしい。判事となって中央に出た一瀬を追い、じっと好機をうかがい続けます。そして、明治13年(1880年)の今日、東京は京橋三十間堀で父の形見の短刀の鞘を払い、一瀬直久に襲いかかったようです。「父の仇、覚悟せよ」と叫んで突いた短刀の一撃は、襟巻きに邪魔され、カスリ傷しか負わせられませんでした。幸い、次の一撃で胸を刺せたようです。敵も「こしゃくな」と組み付いてきましたが、押し倒して馬乗りになり、喉を突き、最後には頸動脈を切断して目的を遂げたようです。
■そのまま警察に自首した六郎は、翌年9月に終身刑の判決を受けます。10年後の明治23年(1890年)に大日本憲法公布による大赦の施行で出獄したようです。大正6年(1917年)に亡くなり、秋月の古心寺という寺に父母と並んで眠っているそうです。
◆参考*1:HP「敵討 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1
◇*2HP「歌舞伎美人(かぶきびと) | 曾我物」
http://www.kabuki-bito.jp/kabuki_column/todaysword/post_114.html
◇*3HP「仇討ち」
http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/amagi/amagihp/akituki/adauti/adauti/adauti.htm
◇*4書籍「幕末明治風俗逸話事典」初版470〜478頁、紀田順一郎(きだ じゅんいちろう)著、ISBN4-490-10338-7、東京堂出版

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
この最後の敵討ちを題材にしたテレビドラマ『遺恨あり』が、今年の2月にテレビ朝日で放映されましたね。
いまでも、飲酒運転による交通事故で4人5人も殺しておきながら、求刑が3年とか聞くと、遺族としては殺してやりたいだろうな・・・と思いますけどね。
ねこのひげ
2011/12/19 06:18
コメントをありがとうございます。

 ドラマのことは知りませんでした。見ればよかったたな。

 ドラマといえば、2時間ドラマとか1時間物刑事ドラマを鑑賞すると、仇討ちはこんなにも多いのかと感心させられます。親の敵だけではありません。子の敵、恋人の敵、恩人の敵等々、ずいぶん多くの脚本家が仇討ちに頼って生活しているようです。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2011/12/19 08:20

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