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help RSS 男性の陽物を服のデザインに使った戦国武将とは誰なの?

<<   作成日時 : 2011/10/08 08:09   >>

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★歴史★
問題:21世紀の法律や道徳から眺めると、戦国武将には奇人や変人、怪人が少なくないようです。
■そのうちの1人は、ある重要人物に面会する際に、服に男性の陽物の絵を描かせ、着ていったといわれます*1。どうも不思議な趣味ではありますが、なにしろ明日の命はわからない人々です。今日はやりたいことをやる。人の評判などどうでもいいこと。そうした何物にもとらわれない考えかたなのかもしれません。
■では、隣国の大名と面会する際に、湯帷子(ゆかたびら、浴衣のようなもの)で出かけ、しかもその生地には陽物をモチーフにしたデザインを使ったという奇人は次の誰でしょうか?
[い]斎藤道三(どうさん)
[ろ]松永久秀(ひさひで)
[は]尼子勝久(かつひさ)
[に]伊達政宗(まさむね)
[ほ]織田信長(のぶなが)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]織田信長(のぶなが)
説明:やっぱりというか、予想通りというか、案の定というか、織田信長です。
■織田信長は1534年6月23日に生まれたという説が有力だそうです。和暦では天文3年5月12日です。天文(てんぶん)15年(1546年)に元服しています。満12歳前後でしょうか。天文(てんぶん)17年(1548年)に美濃国の戦国大名斎藤道三の娘濃姫(のうひめ)と政略結婚したそうです。満14歳前後ですね。濃姫は満13歳前後だったようです。
■舅となった斎藤道三氏は、織田信長がうつけであるという噂を心配したのでしょうか。面会を申し入れたらしい。天文(てんぶん)22年(1553年)、2人は美濃の国の正徳寺(しょうとくじ、聖徳寺とも)という寺で会うことになりました。なお、天文(てんぶん)18年(1549年)に面会したという説もあるようです。
■このとき、織田信長は、「陽物を太々しく染め付けた広袖の湯帷子を着て、茶筅髭で出掛けた」とのこと*1。斎藤道三の家老は国境まで迎えに出ていましたが、親分の義理の息子の服装を見て仰天したらしい。
■このままでは、刑法175条の「わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する」に該当するのではないか。そうは思わなかったかもしれませんが、「このような人を礼法正しく迎えたらかえって不都合か」と直ちに使いを出し、会見式場に田舎家具を置くなどして模様替えさせたそうです。
■「信長公記(しんちょうこうき)」という本によれば、会見場に到着した信長は屏風を引き回して中に入ります。出てきたときには髪は折曲(おりわげ?)というおとなしい髪型になっており、褐色の長袴(ながばかま)、小さい刀を帯びて正式・フォーマルな姿をしていたとのこと。それを見た準備係は、大慌てで元の会見場に再度模様替えしたらしい。
■面会は滞りなく終わり、道三は見送りかたがた信長と並んで閲兵していったそうです。でも織田方の兵隊たちの装備にくらべて斎藤方はだいぶ見劣りしていたらしい。天文(てんぶん)18年(1549年)に、織田信長は近江の国友村から500挺の鉄砲を買い入れており、その鉄砲隊がずらっと並んでいたらしい。斎藤道三は機嫌を損ねたとのこと。斎藤方の家臣たちの間では、信長はやはりたわけ者だという評判もあったようですが、道三自身は、次のように述べたと記されています。「されば無念のことよ。我が子たちは、そのたわけの門前に馬を繋ぐことになろう」。門前に馬を繋ぐというのは、臣従することの婉曲な表現のようです。
■道三の孫、斎藤龍興(たつおき)はのちに織田信長に稲葉山城を追われ、諸処を転々としながら反信長の立場をつらぬき、信長包囲網に加担したりしましたが、越前の朝倉義景(よしかげ)の客分だったときに信長との戦いに敗れ、天正(てんしょう)元年(1573年)に義景ともども討ち死にしたようです。子供の代ではなく孫の代であり、また家来にこそなりませんでしたが、斎藤一家の運命が信長に翻弄されてしまったのはホントのようです。
◆参考*1:書籍「戦国逸話事典」初版78〜79頁、逸話研究会編、IBSN4-404-01585-2、新人物往来社
◇*2HP「織田信長 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
◇*3HP「濃姫 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%A7%AB
◇*4HP「斎藤龍興 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%BE%8D%E8%88%88

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コメント(4件)

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現代でも、奇人変人はボンボンに多いようですが・・・鳩ポッポとか、吉田総理の孫とか・・・戦国時代でも、二代目三代目はプレッシャーだったんでしょうね。
おかしなことをしてないとプレッシャーに押しつぶされそうだったんでしょうね。
子供の斉藤義龍は、戦上手だったようで、織田信長がなんど攻めてもダメでしたからね。
ねこのひげ
2011/10/09 06:48
コメントをありがとうございます。

 申し訳ありません。最初の文では斎藤龍興を道三の「子」としていました。「孫」の間違いでした。斎藤義龍氏の存在を忘れていました。
 ねこのひげ様のコメント中の「義龍」の名前を見て、誤りに気づきました。お詫びするとともに感謝いたします。
 本文のほうも修正しておきました。まことに不注意でした。
m(_ _)m
ねこのひげ様<素町人
2011/10/10 23:04
どういたしまして。m(__)m
ねこのひげも、間違えたコメントしてますから・・・・・お互い歳ですかね(^^ゞ

道三の思っていたのと違い、義龍も龍興も無能だったわけではなく、ルイス・フロイスも本のなかで龍興を有能で思慮深いと書いてますよね。
信長がその上を行っていたということでしょうね。
ねこのひげ
2011/10/12 07:17
コメントをありがとうございます。

 義龍も龍興もけっして無能ではなかったわけですね。でもなぜか離反する家臣が多かったそうです。能力はあっても人望はない上司なんでしょうかね。
(^^;)
ねこのひげ様<素町人
2011/10/12 21:25

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