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●●●●●★歴史★● 問題:天正10年6月2日。西暦(ユリウス暦)では1582年6月21日。本能寺の変で織田信長が殺されます。11日後の7月2日には山崎の戦いがあり、明智光秀が殺されます。429年前の今日、豊臣秀吉が主君の弔い合戦に勝利し、天下統一への第一歩を踏み出したようです。 ■1582年という年は、西暦がユリウス暦からグレゴリオ暦へと切り替わった年だそうです。天体の運行と暦のズレ、季節感とカレンダーとのズレを補正しようとしたらしい。現在われわれが使用している暦がグレゴリオ暦だそうです。1582年10月4日(ユリウス暦)の翌日が1582年10月15日(グレゴリオ暦)となったらしい。もし、さかのぼってグレゴリオ暦を適用するとすれば、本能寺の変は1582年7月1日になるそうです。現在の季節感との一致は、グレゴリオ暦のほうが強いのかな。でも、弊クイズでは、従来どおり1582年までの西暦はユリウス暦で表します。 ■山崎の戦いでは3つの決まり文句が生まれたといわれます。ひとつは「三日天下」。実際には11日天下だったようですが、「ジュウイチニチテンカ」では言いにくい。短かったことを表現するだけですから、歴史上の事実との齟齬(そご、食い違い)は無視しましょう。 ■もうひとつは「天王山」です。「勝敗や運命の重大な分かれ目」という意味があります。「秀吉方が天王山を占拠して光秀方を牽制したことが戦いの帰趨を決めた」という伝説から生まれたらしい。これも歴史上の事実とは少し違うとのこと。Wikipediaによれば、豊臣秀吉方の高山右近(うこん)の軍の横におなじく中川清秀(きよひで)の軍が陣取ろうと天王山の裾に移動してきたそうです。この両隊に明智光秀方の軍勢が襲いかかった。これが合戦の端緒となったようです。天王山の名前がにわかに知られるようになり、「天王山の争奪戦が勝敗の帰趨(きすう)を決めた」という誤解を生んだらしい。 ■最後の言葉は、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」です。「日和見主義」を意味する言葉ですね。明智光秀に加勢を頼まれた大和地方の戦国大名筒井順慶(じゅんけい)が、洞ヶ峠に陣取って戦況を眺め、軍を動かさず、勝敗を見極めてから秀吉方に加勢したというお話があります。 ■本日はこの「洞ヶ峠」のお話からのクイズです。現在知られている限りで、筒井順慶の行動は次のどれに近いでしょうか? 選択肢の中から選んで下さい。 [い]史実はほぼ伝説どおり。筒井順慶は洞ヶ峠に陣取って趨勢を確認していた [ろ]筒井順慶は明智光秀に加勢したかったが、重臣たちがみな豊臣秀吉に加勢するよう進言し、軍を進めることができずに城でもたもたしていた [は]筒井順慶は明智光秀に加勢したかったが、重い病気を患っており、やむをえず筒井城での籠城戦を選択した [に]筒井順慶は中立を守ることを決めており、豊臣方にも加勢しないが明智光秀にも加勢の軍勢は出せない旨の断りをしていた [ほ]筒井順慶はひそかに豊臣秀吉方に寝返ることを決めており、居城で籠城する準備を進めていた (答えはずっと下↓ スクロールして下さい) ●●●●●★歴史★● 正解:[ほ]筒井順慶はひそかに豊臣秀吉方に寝返ることを決めており、居城で籠城する準備を進めていた 説明:筒井順慶は、天文(てんぶん)18年3月3日、1549年3月31日(ユリウス暦です)に生まれた大和地方の戦国大名です。松永久秀(ひさひで)や三好三人衆とともに、奈良や京都近辺を舞台として勢力争いをくり広げたらしい。 ■1560年代に織田信長の勢力が強くなると、明智光秀と佐久間信盛(のぶもり)を仲介人として信長に接近し、臣従を誓います。天正(てんしょう)4年(1576年)には大和の守護に任ぜられたらしい。満27歳ごろかな。そのころから松永久秀は信長と反目を強めます。筒井順慶は松永攻めの先鋒となったようです。天正(てんしょう)5年(1577年)に松永久秀が日本初の爆弾自殺を遂げます*6。これで大和地方では並ぶ者のいない戦国大名となったらしい。単独で18万石、大和の与力をあわせた連結決算では45万石という経済力も備えていたようです。 ■Wikipediaの筒井順慶の項その他によれば、明智光秀がクーデターに成功したあとですぐに誘われたそうです。筒井順慶は満33歳です。明智光秀は信長への仲介の労をとってくれた恩人です。またどちらも教養のある文化人だったようです。体育会系の多い織田家の武将の中では、互いに親しみを感じていたらしい。 ■筒井順慶は、なんども評定を重ねたそうです。その結果、ユリウス暦の6月29日、山崎の戦いの3日前には秀吉への恭順を決めたらしい。たまたまこの日、光秀の家臣の藤田伝五郎(でんごろう?)という武将が再度の勧誘に郡山城を訪ねたそうです。でも筒井順慶は追い返したとのこと。ただし、「僕ちゃんは秀吉君に加勢するもんね。悪しからず」という意志を伝えることもしなかったようです。 ■筒井順慶は食料を集め、籠城の準備に入っていきます。そうとは知らない光秀は、加勢を督促しようと会談を申し入れたとのこと。面会予定地が洞ヶ峠だったともいわれます。光秀は次男を連れて洞ヶ峠に出向きますが、アポイントの時間になっても筒井順慶はあらわれません。どうもスッポカシをくらったようです。 ■筒井順慶や細川幽斎(ゆうさい)らに加勢してもらえなかった明智光秀軍1万6000は、中国大返しの離れ業を演じた豊臣秀吉軍合計4万と戦い、敗れてしまいます。明智光秀は落ちのびる途中の小栗栖(おぐるす)という場所で雑兵、あるいは落ち武者狩りの土民の手にかかって死んだといわれます。また、このときはかろうじて逃れたものの、前途を悲観して腹を切ったという話も伝わります。さらに大胆な仮説では、家康に助けられ、天海(てんかい)僧正として長くコンサルタントを勤めたという話すらあります。 ■筒井順慶は、秀吉に帰順しましたが、天正(てんしょう)12年(1584年)には身体をこわします。胃痛らしい。同年の小牧・長久手の戦さに出陣を促されます。渋々参加したらしい。伊勢・美濃と転戦したそうです。無理をしたためか、大和に戻ってしばらくした天正(てんしょう)12年8月11日、1584年9月15日(グレゴリオ暦?)に満35歳の若さで死んだそうです。 ◆参考*1:HP「今の暦を採用した教皇の誕生日。明治の日本が採用したときは大混乱だったの?」 http://blog.q-q.jp/201001/article_7.html ◇*2HP「山崎の戦い - Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ◇*3HP「洞ヶ峠 - Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E3%83%B6%E5%B3%A0 ◇*4HP「本能寺の変 - Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89 ◇*5HP「筒井順慶 - Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6 ◇*6HP「将軍殺害東大寺大仏殿放火の松永久秀。日本最初の自爆自殺者なの?」 http://blog.q-q.jp/200811/article_30.html ◇*7HP「筒井順慶(じゅんけい)の日和見主義が伝えられる洞ヶ峠(ほらがとうげ)って何県にあるの?」 http://blog.q-q.jp/200607/article_48.html ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧 |
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結局、一番若かった徳川家康が残ったという感じですね。 |
ねこのひげ 2011/07/03 07:19 |
コメントをありがとうございます。 |
ねこのひげ様<素町人 2011/07/03 08:13 |
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