清洲会議の日。信長家を継いだ幼い三法師は、その後どんな運命をたどったの?

画像
★歴史★
問題:本日、7月16日は、清洲会議の429回目の記念日です。1582年の今日、信長の跡目は三法師(さんぽうし)が継ぐと決まりました。後見人の秀吉は天下人第一候補者として名乗りをあげたわけですね。和暦では天正10年6月27日 だそうです。
■会議の25日前。戦国時代を勝ち抜いた初代チャンピオン織田信長は、明智光秀に破れました。その11日後の7月2日には山崎の戦いで秀吉軍が光秀軍を破ります。逃避行の2代目王者光秀は同日深夜、落ち武者狩りの百姓中村長兵衛(ちょうべえ)に竹槍で刺し殺されたと伝えられます。最初の防衛戦でチャンピオンベルトと命を失ったわけかな。
■そして本日の清洲会議を迎えます。ご承知のように織田家重臣柴田勝家の提案、信長の三男織田信孝(のぶたか)を後継者にという意見は退けられます。信長の嫡男の嫡男、つまり孫である三法師が跡目を継ぐことに決まります。羽柴秀吉と丹羽長秀(ながひで)らの意見が通ったわけですね。
■では、429回目の記念日にあたり、本日は清洲会議にちなんだ雑学クイズです。秀吉に手なずけられた三法師は、成人してのち、どのような運命をたどったでしょうか? 次のうちで正しい記述を選んでください。
[い]関ヶ原では東軍につき、四国の領地を安堵されて大名となる。明治維新まで綿々と続いている
[ろ]関ヶ原では東軍につき、秀忠に従うも戦いに遅刻し、謹慎処分を受ける。のちに高家(こうけ)として5000石を与えられる
[は]関ヶ原では西軍につき、徹底抗戦したために捕らえられて斬首された
[に]関ヶ原では西軍につき、敗れて剃髪し、高野山に入るも信長の血縁ということで虐待され、下山して土豪の保護を受けていたが世をはかなんで自殺した
[ほ]キリスト教に帰依し、秀吉・家康の禁教令に反したことから所領を召し上げられ、高山右近とともにフィリピンに渡って生涯を終えた
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[に]関ヶ原では西軍につき、敗れて剃髪し、高野山に入るも信長の血縁ということで虐待され、下山して土豪の保護を受けていたが世をはかなんで自殺した(?)
説明:三法師は天正(てんしょう)8年(1580年)に生まれたそうです。清洲会議の際には満2歳前後でしょうか。秀吉が豪華な人形で取り入ろうとしたのは正解だったのでしょう*3。
■織田秀信(ひでのぶ、三法師)は満8歳ぐらいで元服しています。天正(てんしょう)18年(1590年)には後北条氏が滅ぶ小田原の役がありました。満10歳だったのでしょうか。参戦させられています。天正(てんしょう)20年(1592年)には、美濃国岐阜13万石を与えられたようです。翌年にかけての朝鮮征伐では半島に渡り、転戦したらしい。また、このころに初めての正室の記録が残されているとのこと。満13~14歳ぐらいでカミサンをもったようですね。
■慶長(けいちょう)5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは織田秀信は石田三成から三河・尾張をもらう約束で西軍についたそうです。満20歳ぐらいかな。戦いの前に豊臣秀頼に拝謁し、黄金200枚、軍俵2000石を下賜されているとのこと。豊臣家とは親しかったようですね。叔父さんである織田信孝(のぶたか)との家督相続争いで自分を支持してくれた秀吉に恩義を感じていたのかもしれません。
■関ヶ原の戦いでは岐阜にいて東軍の福島正則(まさのり)・池田輝政(てるまさ)を迎え撃ったようです。木曽川を防衛線としましたが衆寡敵せず、岐阜城に籠城することになります。1日だけ頑張りましたが降伏して開城しています。
■織田秀信は福島正則らの助命嘆願で高野山に送られることになります。頭を剃り、わずかな従者を連れて高野山におもむいたらしい。ところがお祖父さんの信長が高野山と派手に喧嘩したことがあったため、最初は入山できなかったようです*5。
■信長と高野山の喧嘩は天正(てんしょう)9年(1581年)にあったらしい。謀反を起こした荒木村重(むらしげ)の手下が高野山に逃げ込んだそうです。信長は使者を送って引き渡しを求めたらしい。高野山側は使者を殺し、要求に応じなかったようです。信長は日本各地にいた高野山の僧侶数百名を殺害したという話があります。さらに高野山攻めを計画していたところ、本能寺の変があったために高野山は難をのがれたとのこと。
■高野山側にはだいぶ深い恨みがあったのでしょう。やむなく高野山麓の向副(むかそい)村の豪族に寄留したらしい。1か月余りして入山が許されたそうですが、今度は虐待を受けつづけたという噂があります。慶長(けいちょう)10年5月8日、西暦では1605年6月24日に向副村に戻ってきたようです。高野山側ではこの日を秀信の命日としているらしい。
■実際にはもう少しだけ生き延びて、7月に入ってから死んだとする説もあります。また、最期については自殺説もあり、病死説もあるようです。いずれにせよ満26歳前後で織田秀信は死んだとする説が有力なようです。この時点で織田宗家(そうけ、本家)の血筋は絶えたのかな。
■なお、Wikipediaには、陸奥棚倉藩(たなぐらはん、現福島県)1万石として大名に復帰したとする説も紹介されていました。「最後の岐阜城主・織田秀信終焉の地とその子孫」という論文を書いた人がいて、そのように記されているそうです。戦国の重要人物ではありますが、その晩年については不鮮明な部分が多いようです。
◆参考*1:HP「織田秀信 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1
◇*2HP「清洲会議 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E4%BC%9A%E8%AD%B0
◇*3HP「豊臣秀吉の命日。秀吉が天下を取るため、信長の孫に取り入った方法とはどんなこと?」
http://blog.q-q.jp/201009/article_16.html
◇*4HP「信長公なきあとの後継者決定重役会議。柴田勝家が秀吉に要求したものは?」
http://blog.q-q.jp/200705/article_21.html
◇*5HP「岐阜市議会議員 いぬい尚美」
http://www.asahi-net.or.jp/~mb5n-ini/q0611.htm

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

この記事へのコメント

ねこのひげ
2011年07月17日 10:03
歴史の表舞台に立ったのが赤ん坊のときだけ。というのもなんだか悲しい運命ですね。
分家のスケーターのほうが有名になっちゃいましたが。
そういえば浅井家の血筋はそこら中に散らばっていて、細川元首相も子孫の1人になるそうですね。
ねこのひげ様<素町人
2011年07月17日 21:07
コメントをありがとうございます。

 赤ん坊の時だけでも歴史の表舞台に立てたんだからいいじゃん。そういう意見もあるかもしれませんね。
(^^;)

この記事へのトラックバック