徳川家康を脱糞に追い込んだ山県昌景。戦さの名人は、刀や槍を重視しなかったの?

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★歴史★
問題:山県昌景(やまがた まさかげ)という武将がいました。甲斐の武田信玄の四天王と呼ばれた人物だそうです。
■元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは、武田信玄率いる本隊は、徳川家康のたてこもる浜松城を無視するように北側を通過、三方ヶ原台地を西進していったそうです。
■大軍に包囲される籠城戦を覚悟して待ち構えていた家康は気抜けします。ひょっとしたら敵の背後が突けると思ったのか、反対を押し切って三方ヶ原に出陣します。武田信玄は家康が誘いに乗ってくるだろうと見越していたらしい。準備して待っていたようです。家康の本陣には山県昌景隊が突撃し、徳川方は総崩れになったようです。武田軍の死傷者が200人ほど。徳川方は10倍の犠牲を出したといわれます。追撃された家康は、一時はこれまでかと腹を切る覚悟をしたらしい。
■敗走する中で部下が身代わりとなって何人か死んだそうです。途中で敵の追撃隊をかわすために、洞窟にかくれたりしたという話も伝わっています。浜松城に逃げ帰った家康は、恐怖のあまりの脱糞を部下に指摘され、これは味噌じゃと強弁したという話もあるらしい。なんとも臭い味噌をつけたものです。
■家康は、武田信玄の策略にまんまとはまった愚かさを忘れまいとしたらしい。下の絵にある顰像(しかみぞう)は、敗戦直後に描かせたそうです。恐怖に怯える間抜けな姿を記録に残し、ことあるごとに眺めては自分に対するいさめとしたといわれます。
▼顰像
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■山県昌景は、個人としての戦闘術に優れていると同時に集団を率いる戦略家としても一流だったらしい。武田に山県ありと周辺諸国から恐れられていたそうです。
■本日は、勇猛果敢な武将の436回目の祥月命日だそうです。天正(てんしょう)3年5月21日。西暦では1575年の今日、6月29日に、壮烈な戦死を遂げたらしい。猛将の死をいたみつつ山県昌景についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか? (正解は複数かも) 
[い]六尺(約182cm)豊かな大男であり、男前でもあった
[ろ]武士がたしなむべき技術・知識として4つの科目を挙げたが、その中に剣道はなかった
[は]戦場で活躍するコツを聞かれ、いつも初陣だと思って備えられよと答えている
[に]山県昌景の部隊は軍装を黒で統一しており、強かったので周辺諸国でも真似をする者が出た
[ほ]長篠の戦いでは突撃論者であり、先頭切って突撃して弾に当たって死んだ
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[は]が正しい
説明:[い]六尺(約182cm)豊かな大男であり、男前でもあった(×)
■正しくは、「小男であり醜男だった」だそうです。Wikipediaの山県昌景の項によれば、130~140cmしかなかったとのこと。いわゆる三ツ口だったともいわれます。現在でこそ三ツ口は手術で完全に治るようですが、当時はそのままだったのでしょう。
□後世の「校合(キョウゴウ)雑記」という本には次のように記されているらしい。「袴腰と頭との間、僅(わず)か四、五寸ならでは無き程の小男にて、不器量なれども渠(キョ、指導者としての能力)を備え、立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり。信玄家臣の中でも股肱(ココウ、1番頼りになる部下)の大将かな。戦にては信玄の小男出たりと恐怖しける程の侍大将に有りける也」
□袴腰はようするに腰だそうです。腰から頭までが12~15cmほどしかなければ、内臓がおさまりません。だいぶ誇張があるのかな。「渠」という漢字は、「暗渠(アンキョ)」などと使われます。水路とか溝を意味するそうです。同時に「かしら、首領」という意味があるらしい。そして、敵方には、「信玄の小男」と呼ばれていたようです。
[ろ]武士がたしなむべき技術・知識として4つの科目を挙げたが、その中に剣道はなかった(○)
■参考資料*1によれば、武芸の4つの科目について、次のように語っているらしい。「武芸に四門がある。弓、鉄砲、兵法、馬の四つである。武士は、身分の大小によらず、この四つを習うことが肝要である」。4科目のうち、最初に習うべきは馬なんだそうです。2番目が兵法、3番目に弓、4番目に鉄砲とのこと。移動手段と飛び道具と戦術が大切ということかな。刀や槍など接近戦・個人戦の武器についてはとくに触れていないようです。すでに集団戦の時代、飛び道具が主役の時代に入っていたのかな。
[は]戦場で活躍するコツを聞かれ、いつも初陣だと思って備えられよと答えている(○)
■「初心忘るべからず」というやつでしょうか。いくたびか参戦すると、ついつい慣れが生まれ、油断が生まれるそうです。初陣のときの不安と緊張、気持の高ぶりを保っていければ、準備も慎重になり、戦場で不覚をとることもないようです。
□山県昌景先生のおっしゃることはわかりますが、なかなかそうはいきませんよね。戦国時代の武士にとって戦さはルーチン・ワークでしょう。つい手抜きしたり失敗したりすることもあると思われます。それで死ぬ人が多いってことかな。
[に]山県昌景の部隊は軍装を黒で統一しており、強かったので周辺諸国でも真似をする者が出た(×)
■正しくは、「赤備え」だそうです。山県昌景の部隊は赤で統一された軍装だったとか。サッカーの2010南アフリカW杯で優勝したスペインのように、赤備えは強いようです。
□徳川家康は赤備えの集団に襲われたときの恐怖が心に焼き付いたのかもしれません。腹心の井伊直政(なおまさ)に、赤備えを採用させたといわれます。
[ほ]長篠の戦いでは突撃論者であり、先頭切って突撃して弾に当たって死んだ(×)
■信玄が死んだとき、「3年秘すべし」といわれ、重臣馬場信春(のぶはる)とともに息子の武田勝頼(かつより)を託されたようです。
□残念ながら武田勝頼とは相性が悪かったらしい。あまり重用されなかったようです。天正(てんしょう)3年(1575年)の長篠の戦いで、勝頼は突撃戦を唱えましたが、山県昌景は撤退論を主張したらしい。「いくつになっても命は惜しいものらしい」と勝頼に皮肉を言われたそうです。
□大将の命令ですからやむをえず突撃隊として赴き、もうすこしで柵を突破するという地点で銃弾を浴び、名誉の戦死を遂げたらしい。満46歳前後でした。
□「信長公記(シンチョウコウキ)」という記録によれば、このとき挙げられた首級の一覧では、山県昌景の首が筆頭だったそうです。いちばんの戦果だと織田・徳川方が思っていた証左ですね。恐れられていたことがよくわかります。
□余談です。山県昌景とともに後事を託された武田の重臣馬場信春の娘は、家康が鳥井元忠という部下にあえて命じて探させたほどの美貌だったらしい。武田家が滅亡したときの話ですね。結局美女は見つからず、家康は諦めたようです。ところが鳥居元忠は実際には娘を確保しており、ちゃっかりと自分の本妻にしていたらしい。のちにそれを知った家康は笑って許したと伝えられています*3。
◆参考*1:書籍「戦国逸話事典」初版48~49頁、逸話研究会編、IBSN4-404-01585-2、新人物往来社
◇*2HP「山県昌景 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%98%8C%E6%99%AF
◇*3HP「家康の忠臣鳥居元忠と子孫の物語。伏見城に散った猛将は意外に女に手が早かった?」
http://blog.q-q.jp/200808/article_10.html

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この記事へのコメント

sadakun_d
2015年01月14日 15:31
1573年三方原の戦い~1575年長篠の合戦。いやいや家康vs信玄が"武勇に勝る武田信玄の勝ち"は「日本史」で有名にしてもらいたいが。

映画「影武者」(黒澤明)のテーマにあるようで。

しかし、武田信玄(病が重き)の動き、浜松~吉田(豊橋市)~野田城(新城市)

なぜこのような進路を取る必要があったのか。謎がありそう
sadakun_d 2
2015年01月14日 15:35
鳥居元忠(家康より歳上の家臣)は岡崎市矢作の生まれ(岡崎城西高校の校庭)

駅伝選手、サッカー部員は鳥居元忠の記念碑を眺めて練習してます。

美人の妻~あやかるかなあー(笑)
sadakun_d様<素町人
2015年01月15日 17:02
コメントをありがとうございます。

 毎日のように鳥居元忠の記念碑を眺めると美人妻が持てるのでしょうか。それとも忠誠心というかフォア・ザ・チームの心ばかりが発達するのかな。
(^^;)

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