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zoom RSS 前田利家の誕生日。家康を抑えようとした長身美貌の武将は、信長の元愛人なの?

<<   作成日時 : 2011/01/15 07:22   >>

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★歴史★
問題:西暦1539年の今日、1月15日。和暦では天文(てんぶん)7年12月15日。加賀百万石の繁栄を導いた戦国武将前田利家(としいえ)が尾張国海東郡(かいとうのこおり)の城主の4男として生まれました。現在の名古屋市中川区らしい。幼名は犬千代(いぬちよ)だそうです。
■幼少時は織田信長の小姓。成長してからは精鋭として直属の部下だったらしい。少年・青年時代の利家は、信長の衆道(しゅどう/しゅうどう)の愛人だったとのこと。後年、信長自身が宴席で暴露しているらしい*1。前田利家はうらやましがられたそうです。
■利家は、残された着物から推測すると、6尺(約1.82m)もある人だったらしい。しかもなかなかの美男子とのこと。心身ともに信長に目をかけられた利家は、信長の天下統一の事業を助けていきます。
■天正(てんしょう)10年(1582年)。本能寺の変後体制を決める清洲会議では柴田勝家側に立ったらしい。でも賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れたあとで秀吉に降参しているようです。勝家とお市の方が立てこもる北の庄(きたのしょう、福井)城攻めには最前線で参加したとのこと。以後は秀吉に従います。
■最晩年の秀吉は、五大老の1人として前田利家を選びました。他の大老は徳川家康・毛利輝元(てるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川隆景(たかかげ)だそうです。幼い秀頼の傅役(ふやく、もりやく)にも任じられました。傅役は後見人のような立場らしい。
■慶長(けいちょう)3年(1598年)に秀吉が死んだ後は、徳川家康の自由・勝手な行動を抑えようと尽力します。慶長(けいちょう)4年閏3月3日。西暦では1599年4月27日に病死しました。翌年の関ヶ原の戦い以後、家康の天下となるのはご存じのとおりです。前田家は徳川に従い、加賀百万石として明治維新まで繁栄を謳歌しました。
■本日は、百万石の基礎を築いた戦国武将472回目の誕生日を寿(ことほ)ぎ、前田利家についての雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか?(正解は複数かも)
[い]信長の元では、黒母衣衆(くろほろしゅう)として最前線で一番乗りを争う部隊に配置された
[ろ]信長お気に入りの同朋衆(どうぼうしゅう、雑用係兼芸人)を斬り捨てて逃亡し、指名手配を受けていたが、桶狭間の戦いに加勢して手柄を立て、帰参を許された
[は]秀吉と利家は寧々(ねね)をめぐって恋のライバル。結局秀吉が勝ち、祝言の仲人を利家がつとめた
[に]一向一揆の鎮圧では、かなり手荒い方法をとった
[ほ]利家は丼勘定の典型であり、倹約とか節約は一切しなかった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]と[に]が正しい
説明:[い]信長の元では、黒母衣衆(くろほろしゅう)として最前線で一番乗りを争う部隊に配置された(×)
■信長の元では、「赤母衣衆」という部隊に配属されたようです。赤母衣衆は、文字通り赤い母衣をつけた者たちという意味らしい。母衣は、幌馬車の幌にちょっと似ています。背中に布をゆるめに垂らす一種の防具らしい。馬に乗って走ると風を受けて膨らみます。背後からの流れ矢を防ぐことができるとのこと。
□精鋭の者が配属される部隊のようです。でも、本隊と支隊の連絡係とか、信長の警護などが役目らしい。大切な仕事ではありますが最前線ではないため、手柄を立てにくい立場だったようです。
□なお、信長には赤母衣衆と黒母衣衆、黄母衣衆などの部隊があったらしい。秀吉は黄母衣衆だったようです。
[ろ]信長お気に入りの同朋衆(どうぼうしゅう、雑用係兼芸人)を斬り捨てて逃亡し、指名手配を受けていたが、桶狭間の戦いに加勢して手柄を立て、帰参を許された(×)
■同朋衆の捨阿弥(じゅうあみ)という人物は、利家の大切な笄(こうがい、髪の装飾品)を盗んだらしい。また利家を侮辱したそうです。激怒した利家は、永禄(えいろく)2年(1559年)、信長の面前で斬り捨てたとのこと。普通なら「殿中でござるぞ」ということになり、浅野内匠頭(たくみのかみ)とおなじ切腹の運命なのかな。でも、柴田勝家や森可成(よしなり)の取りなしで出仕停止だけで済んだそうです。満20歳ぐらいころです。カミサンのまつと結婚したばかりだったらしい。まつさんも苦労していますね。
□翌年の桶狭間の戦いに勝手に加勢し、3つの首をとる手柄を立てたのは事実だそうです。でも、信長は許さなかった。翌永禄(えいろく)4年(1561年)には森部の戦いという美濃の斎藤龍興(たつおき)との争いにも勝手に参戦しています。
□森部の戦いも斎藤6000対織田1500という不利な戦いだったらしい。利家は「頸取(くびとり?)足立」の異名を持つ足立六兵衛(ろくべえ)という敵方の豪傑を見事に討ち取ります。信長は足立六兵衛をことのほか恐れており、六兵衛の首は城ひとつに等しいと言っていたらしい。信長社長の勘気(かんき)はとけ、織田天下取株式会社への再就職が認められたようです。給与も解雇時よりアップしたらしい。クビになったり首をとってクビをつなげたりと、利家の20代前半は、忙しかったようですね。
[は]秀吉と利家は寧々(ねね)をめぐって恋のライバル。結局秀吉が勝ち、祝言の仲人を利家がつとめた(○)
■のちの北の政所、寧々(ねね)はなかなかいい女だったようです。参考資料*4によれば最初に目をつけたのは信長だったとか。部下である木下藤吉郎のカミサンに適していると見抜いたという話です*4。利家も惚れたようです。寧々の養父母である浅野長勝家では喜んだらしい。利家は長身のハンサムですし、信長の覚えがめでたいこともつとに知られています。
□ところが寧々は首をたてに振りません。問い詰めると木下藤吉郎と先約があるとのこと。利家はあきらめ、ふたりの祝言の仲人をつとめたそうです*4。独身の媒酌人かな。寧々はそれほど魅力ある女性だったらしい。
[に]一向一揆の鎮圧では、かなり手荒い方法をとった(○)
■福井県越前市に小丸城(こまるじょう)という城がかつてあったそうです。その瓦に、「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」と刻みこまれていたらしい。一揆の生き残りが小丸城の普請に参加し、隙をみて彫りつけたものと推測されているようです。憎い敵、利家の非道、仲間の無念を後世に伝えたかったのかな。前田又左衛門(またざえもん)は利家の通称とのこと。
□晩年の利家は穏やかな人物に見えます。でも、戦国時代には多少の残虐性を発揮しないと生きていけないのでしょう。なお、一向一揆は天正(てんしょう)3年(1575年)に鎮圧されています。利家は満36歳前後だったようです。
[ほ]利家は丼勘定の典型であり、倹約とか節約は一切しなかった(×)
■前田利家は、20代前半の2年間の浪人暮らしで多くのことを学んだようです。「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人だ」という単純で鋭利な事実にも気がついたらしい。柴田勝家と森可成の2人こそが真の友人だと思ったようです。
□浪人のあいだ、生活が苦しかったのでしょうか。金銭感覚がたいへん発達したらしい。つねづね「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」と語っていたらしい。のちにカミサンのまつから吝嗇(りんしょく、けち)とからかわれるぐらい、節約家だったとのこと。
□前田家の支出はすべて利家が決済していたらしい。利家は算盤ができたそうです。家計簿を前に算盤をはじいている戦国大名というのも面白い光景ですね。ちなみに日本で算盤が普及し始めたのは応仁(おうにん)元年(1467年)に始まった応仁(おうにん)の乱のちょっと前ぐらいらしい*5。
□利家が存命中には、前田家は健全財政だったらしい。困っている他の大名に貸すこともしばしばだったようです。息子の利長(としなが)に、「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかった事にしてやれ」と遺書で命じているそうです。
◆参考*1:HP「前田利家 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
◇*2HP「母衣 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E8%A1%A3
◇*3HP「犬千代史跡(森部古戦場)」
http://homepage2.nifty.com/matira/inutiyo_yukari/moribe_inutiyo.htm
◇*4書籍「世界人物逸話大事典」初版306頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04-031900-1、角川書店
◇*5HP「算盤が電子計算機に勝った日。では、日本に算盤が来たのはいつごろなの?
http://blog.q-q.jp/200811/article_16.html

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