江戸時代の三大画家と呼ばれる谷文晁(たに ぶんちょう)。広報宣伝の大家でもあったの?

画像
★歴史★
問題:Wikipediaによると、円山応挙(まるやま おうきょ)、狩野探幽(たんゆう)とともに、江戸時代の三大家と呼ばれるのが谷文晁だそうです*1。
■円山応挙は幽霊の足を描くのをさぼった画家ですね。応挙の影響で、日本の近世以降の幽霊は足元がおぼつきません。18世紀の後半に活躍したそうです。
■狩野探幽は、江戸時代初期の狩野派の重鎮です。10歳で家康に謁見し、15歳で御用絵師として採用された早熟の天才だそうです。
■Wikipediaの国宝一覧で調べると、円山応挙の作品が1点あります。狩野探幽と谷文晁にはありません。ただし、谷文晁の弟子でもある渡辺崋山(かざん)には1点あります。池大雅(いけたいが)、俵屋宗達(たわらやそうたつ)、尾形光琳(おがたこうりん)などはそれぞれ2点以上あるようです。単に国宝の点数だけからすれば、池大雅以下の3人は超大家なのかな。
■それはともかく、谷文晁が江戸中期から後期を代表する大画家であることにはかわりはありません。宝暦(ほうれき)13年(1763年)に生まれました。実家のお祖父さんは民政家だそうです。武士は戦争はプロですが、政治経済には疎い場合があります。産業の育成から法の制定にいたるまで、藩の経営・法治について助言を与えたり、指導したりするのが民政家らしい。三卿のひとつ、田安家に仕えて実績を挙げたとのこと。
■お父さんも田安家に仕え、漢詩をよくした人らしい。谷文晁は、経済的な不安を感じることなく、かつ文化の香り高い環境の中で育ったようです。12歳のころから絵を学び、狩野派、古土佐、琳派、円山派、四条派、南画、北宋画、西洋画まで学んだそうです。山水画、花鳥画、人物画、仏画などなんでもごされだったらしい。八宗兼学(はっしゅうけんがく)と呼ばれたそうです。八宗兼学は、仏教の言葉で「八宗の教義をすべて兼ね修めること」だそうです。転じて、「物事に広く通じていること」を表すらしい。いろいろな流派の奥義を究めた人なんでしょうね。口絵はその作品のひとつ、「綬帯鳥図(じゅたいちょうず)」という絵です。素人が観ても構図や色の使いかたが素晴らしいように感じます。
■では、江戸の中期から後期にかけての大物画家、谷文晁についての雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか?(正解は複数かも)
[い]江戸で売り出すのに独特の手を使って成功した
[ろ]さまざまな絵を模写して腕を磨いたが、空海の肖像だけは「模写すると目がつぶれる」という伝説に恐れ、模写できなかった
[は]ある藩の家老は谷文晁の貴重な絵を持っていたが、一茶が書き込んだ俳句に激怒し、破り捨ててしまった
[に]古画の鑑定をすることもあったが、どんな絵でも「いい絵だ」といってしまうので、鑑定士としては失格だった
[ほ]高齢になってからも絵の注文はさばいたが、親しい人に依頼されると描かなかった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[は]、[ほ]が正しい
説明:[い]江戸で売り出すのに独特の手を使って成功した(○)
■年の暮れに千本の白扇を買い集めます。それぞれに富士山の絵を描き、大きく文晁と署名します。大晦日の夜中に、江戸の街のあちこちに捨てさせたそうです。八百八町とすると1町あたり1本強かな。年が明けて元旦です。年始に歩き始めた人たちは、新しい扇を拾います。開いて見れば上手に描けた富士の絵です。こいつは春から縁起がいいと喜び、文晁の名前は1日で江戸中に広まったらしい。
□このPR方法は寛政の改革の指導者、松平定信(さだのぶ)が知恵をつけたという話もあります*2。田安家に仕えているところから、松平定信とは昵懇(じっこん)のあいだがらであり、いちばんの理解者だったそうです。定信の依頼で、「集古十種(しゅうこじっしゅ)」という古い宝物の図録集の製作にも参加しています。
[ろ]さまざまな絵を模写して腕を磨いたが、空海の肖像だけは「模写すると目がつぶれる」という伝説に恐れ、模写できなかった(×)
■奈良の弘仁寺(こうにんじ)という空海が創建した寺に、空海が小野篁(おののたかむら、平安初期の漢学者・歌人)を描いたという肖像画と、逆に小野篁が空海を描いたという肖像画があったらしい。この2点を模写しようとすると、目がくらんで死んでしまうという伝説があったそうです。
□谷文晁は、「今でさえ絵の具が色あせている。百年後にはまったく見えなくなるだろう」と心配し、伝説などまったく気にかけずに両方を2部ずつ模写し、1部は寄付し、1部は自分で持ち帰ったそうです。文化財保護の考えが迷信を吹き飛ばしたわけかな。
[は]ある藩の家老は谷文晁の貴重な絵を持っていたが、一茶が書き込んだ俳句に激怒し、破り捨ててしまった(○)
■松代藩(まつしろはん)といいますから、小林一茶の故郷の藩なのでしょうか。家老の1人が谷文晁のめでたい絵を持っていたそうです。一茶は俳人として名高かったので、賛(さん)を依頼したらしい。一茶は、「来年は 小便くさき 炬燵(こたつ)かな」と俳句を書き添えたそうです。ちなみに賛というのは、「画面の中に書きそえた、その絵に関する詩句」だそうです。
□「小便」という言葉が気に入らなかったのでしょうか。家老は激怒して絵を破り捨ててしまったとのこと。のちに話を聞いた家来たちが、「夫婦の仲がむつまじく、やがて赤子を出産することを寓した(ぐうした、かこつけて示した)めでたい句だ」といったそうです。家老は後悔しましたが、もう後の祭りだったとか。どんな絵が描かれていたんでしょうね。谷文晁の絵に小林一茶直筆の賛がしてあったら、「なんでも鑑定団」で数千万円、ひょっとしたらもっと上の評価かもしれません。惜しいことをしました。
□ちなみに小林一茶も宝暦(ほうれき)13年(1763年)に生まれています。俳句と絵画のふたりの巨匠はおないどしらしい。一茶が亡くなったのは文政(ぶんせい)11年(1828年)で、満64歳ぐらいだったとのこと。
[に]古画の鑑定をすることもあったが、どんな絵でも「いい絵だ」といってしまうので、鑑定士としては失格だった(×)
■谷文晁は、金持ちの絵は真剣に鑑定したようです。でも貧乏な人が持ち込んだ絵は、つい「うんこれは良いものだ」といってしまったらしい。情のある人らしいのですが、鑑定士としては優秀とはいいがたかったようです*2。
[ほ]高齢になってからも絵の注文はさばいたが、親しい人に依頼されると描かなかった(○)
■谷文晁も晩年はあまりいい絵がかけなかったようです。親しかった塩田随斎(ずいさい、儒学者)が絵をねだると、「20年前の絵には良い作品もある。でも今は古希をこえ、目がかすみ、昔のような絵が描けない。今はただ暮らしのために筆をとっているに過ぎない。あなたのように親しい人にはそんな絵は差し上げられないから勘弁してくれ」という意味のことをいって断ったそうです*2。
□天保(てんぽう)11年12月14日(西暦1841年1月6日)に亡くなりました。満77歳ぐらいだったのでしょうか。谷文晁が亡くなった11か月後、天保12年10月11日(西暦1841年11月23日)には、弟子の渡辺崋山(かざん)も後を追うように切腹しています。蛮社の獄で幕府の鳥居耀蔵(ようぞう)に睨まれ、藩に迷惑をかけまいとした自死らしい。こちらは満48歳ぐらいだったようです。
◆参考*1:HP「谷文晁 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%96%87%E6%99%81
◇*2書籍「世界人物逸話大事典」初版602~603頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04-031900-1、角川書店

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 7

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
ナイス
かわいい かわいい かわいい かわいい

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 方言の問題。かんぷら芋ってどんな芋なの?

    Excerpt: ●●●★日本語★●●● 問題:「ものの名も ところによって かわるなり 難波(なにわ)の葦(あし)は 伊勢の浜荻(はまおぎ)」という歌があります。土地によって呼び名が変わるものがあることを意味するら.. Weblog: 町人思案橋・クイズ集 racked: 2011-01-06 07:17