豊臣秀吉の命日。秀吉が天下を取るため、信長の孫に取り入った方法とはどんなこと?

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★歴史★
問題:西暦1598年の今日、9月18日。和暦では慶長(けいちょう)3年8月18日。豊臣秀吉が亡くなりました。満61歳と6か月ぐらいだったらしい。ご存じのとおり、草履取りから始めて最後は天下人です。位人臣(くらいじんしん)を極めました*1。
■秀吉が天下を取る直接のきっかけとなったのは、天正(てんしょう)10年(1582年)信長が本能寺において明智光秀に討たれたことですね。中国攻略で備中高松城を水攻めにしていた秀吉は、事件を知って素早く毛利方と講和を結び、京都に軍を返します。中国大返しと呼ばれる大移動だそうです。
■本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)の早朝です。6月22日(和暦6月3日)の夜には秀吉は信長の死を知ったらしい。6月23日(和暦6月4日)には講和成立。6月25日(和暦6月6日)に京都を目指して出発したらしい*2。ご存じのとおり、7月2日(和暦6月13日)の山崎の戦いでは4万の勢力で1万6000の明智軍を破っています。2万人は高松城から移動した軍勢らしい。残りの2万は秀吉のもとに駆けつけた武将たちの兵力のようです。
■地図で見ると、移動した道のりは150~200kmの間でしょう。1日に20~30kmはたいしたことがないようにも見えます。でも完全武装、戦時編制の軍隊です。荷物も多いことでしょう。大多数は徒歩での移動です。しかも梅雨です。1週間で次の戦いにベストコンディションでのぞんだのは、奇跡に近いらしい。沿道の住民を上手に使ったという噂もあります。臨時雇用で武具その他を運搬させたのかな。
■山崎の戦いは1日で勝負がつきます。おもな残党の退治も含めると7月6日(和暦6月17日)には一部を残して明智光秀の勢力を一掃したようです*3。
■信長後の体制を決める清洲会議まではわずかに10日しか残されていません。この間に、秀吉は丹羽長秀(にわ ながひで)その他の味方の票を確実なものにしておかねばなりません。信長の孫、信忠の息子である三法師も味方にしなければなりません。対抗する勢力は柴田勝家です。勝家は信長の3男である織田信孝(のぶたか)を擁立するに違いありません*4。
■三法師は、天正(てんしょう)8年(1580年)に生まれています。清洲会議のときには満1歳か2歳です*5。三法師を相続人とすることができれば、後見人として秀吉はとても有利な立場に立てそうです。
■秀吉は三法師を手なづけようと接近したそうです。でも三法師は初めは秀吉になつかなかったらしい。ところが、清洲会議の日には、三法師を連れて現れたともいわれます。では、秀吉が三法師を手なづけるためにやったことは、次のどれでしょうか?
[い]当時いちばんといわれた踊りの名手を同道し、三法師に見せた
[ろ]当時いちばんといわれた道化師を同道し、三法師を笑わせた
[は]三法師とおなじぐらいの年齢の幼児を同道し、3人で遊んだ
[に]豪華な人形を一晩で作らせ、三法師にプレゼントした
[ほ]乳母に多額の金銭を渡して買収した
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[に]豪華な人形を一晩で作らせ、三法師にプレゼントした
説明:参考資料*6によれば、三法師に冷たくあしらわれた秀吉は、また明日来るといって去ります。秀吉は一流の細工職人数十人を呼び集めたとのこと。材料も取り寄せて、「でくのぼう」という人形を作らせたそうです。
■辞書によれば、でくのぼうには操り人形という意味もあるらしい。おそらくはマリオネットのように糸で操ったり、文楽の人形のように棒や手で操るような、可動部分の多い人形だったのでしょう。
■人形には、綾羅金襴(りょうらきんらん)の服を着せたとのこと。綾羅とは「あやぎぬとうすぎぬ」を指すそうです。金糸を使った派手で美しい服なのでしょう。
■鳥や馬の人形も作らせたそうです。墨俣城(すのまたじょう)のときから突貫工事の好きな秀吉ですね。たった1日で子供の喜びそうな超高級玩具を手に入れたようです。
■翌日、この人形を持って三法師に面会します。三法師は秀吉に近づいたそうです。というよりも人形に近づいたのかな。上臈(じょうろう)たちも、人形を取り囲み、声をあげて喜んだらしい。その興奮の中で、三法師は秀吉に抱かれたらしい。上臈というのは、身分の高い女官だそうです。
■三法師を籠絡した秀吉は、清洲会議で柴田勝家の主張を退けるとともに、織田家家臣の筆頭となったらしい。柴田勝家は不満を爆発させ、清洲会議から1年も経たないうちに賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、自害することになります。柴田勝家は満61歳ぐらい。秀吉は46歳ぐらいでした。
■余談です。秀吉が三法師を擁立したのは、当時の腹心の部下、黒田官兵衛(かんべえ)の案だったそうです。その黒田官兵衛は、中国大返しの際、突然、秀吉の腕をつかみ、「藤吉郎、上様が御生害(ごしょうがい)で嬉しかろう」といったらしい。生害は自殺することだそうです。黒田官兵衛は秀吉より10歳ほど年下です。秀吉直属の部下となったのもわずかに2年ほど前です。それなのに「藤吉郎」という旧い呼びかたをし、もの凄いことをいったわけですね。
■秀吉の本心をグサリとさして見せた黒田官兵衛はのちに如水(じょすい)と名前を変えたそうです。中国大返しから14年たった慶長(けいちょう)元年(1596年)。近畿地方を大地震が襲いました。秀吉の居城であった伏見城も大破したそうです。このとき、秀吉自身が落命したという噂が広まったらしい。
■夜明けを待って、高級幹部たちは伏見城に詰めかけたそうです。「上様はお庭」と聞いて、潰れた屋根や瓦を乗り越えてやってきます。秀吉は仮の座所で引見したとのこと。如水も現れました。如水は秀吉の無事を祝す言葉を述べます。そのとき、秀吉はこういったそうです。「官兵衛、夕べ俺が死んだと聞いたときは嬉しかったろう」。14年後のしっぺがえしですね。
■黒田官兵衛あらため如水は、何も言わずに恐懼して(きょうく、おそれかしこまって)引き下がったそうです*7。このとき秀吉は満59歳ぐらい。黒田如水は満50歳ぐらいでした。
◆参考*1:HP「豐臣秀吉 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
◇*2HP「備中高松城の戦い - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E4%B8%AD%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
◇*3HP「山崎の戦い - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
◇*4HP「清洲会議 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E4%BC%9A%E8%AD%B0
◇*5HP「http://ja.wikipedia.org/ - 織田秀信 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1
◇*6書籍「日本史人物逸話事典」文庫初版381~382頁、鈴木亨編著、ISBN4-05-901109-6、学習研究社
◇*7書籍「近世人物夜話」文庫初版13~19頁、森銑三(せんぞう)著、ISBN4-06-158878-8、講談社

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