秀頼の息子、7歳の国松が処刑された日。豊臣の祟りで徳川の国松も殺されたの?

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★歴史★
問題:西暦1615年の今日、6月19日。和暦では慶長20年5月23日。豊臣秀吉の孫、豊臣秀頼の息子国松が京都の六条河原で斬首刑に処されました。1608年生まれだそうです。満でいえば6歳か7歳という年齢。現在でいえば小学1年生だったのでしょうか。
■戦国の世では珍しくもない出来事でしょう。でも、哀れです。徳川家としては豊臣家を根絶やしにしたかった。それはわかりますけどね。
■小学校1年生の死刑囚は、処刑現場で最終弁論を行ないます。「徳川家が豊臣家に対して犯した数々の背信行為を糾弾」したそうです。まっ、判決はすでに出ていたわけですが。「動揺の色も見せず死に赴いた」とのこと。素晴らしい。武士の子供は躾けが行き届いていますね。
■最近の子供たちとは大違い。電車やバスの中、あるいはホールや病院で傍若無人に振る舞うお坊ちゃま・お嬢ちゃまに遭遇することがあります。せめて親だけでも斬首刑に処して差し上げたい、と思うことがあります。
■本日は、清く正しく幼い命が絶たれた395回目の命日にちなみ、豊臣国松についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?(正解は複数かも)
[い]豊臣国松は秀頼と千姫のあいだにできた子供である
[ろ]大坂城の炭部屋に乳母と一緒に隠れていたところを捕まった
[は]死刑判決を受けていない人物が志願し、一緒に処刑されている
[に]鹿児島に落ちのびており、長く存命したという説もある
[ほ]のちに幼名を国松という徳川家の重要人物も非業の死を遂げている
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]と[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]豊臣国松は秀頼と千姫のあいだにできた子供である(×)
■正しくは、「秀頼と側室伊茶(いちゃ?)のあいだにできた子供」だそうです。おふたりは新しい生命を授かった運命の夜、大坂城で伊茶ついていたのでしょうか。失礼、誤植です。
□伊茶さんは、渡辺五兵衛という人物の娘という説が有力だそうです。他に、小田原北条家の家臣成田氏の娘という説もあるらしい。
[ろ]大坂城の炭部屋に乳母と一緒に隠れていたところを捕まった(×)
■西暦の6月4日、処刑死の半月前ですね。国松は父秀頼と別れの盃をかわし、乳母と田中六右衛門(ろくえもん?)という武士と一緒に大坂城から脱出したそうです。逃げ延びて豊臣家再興を目指したのかもしれません。残念ながら捕まってしまいます。
□なお、炭部屋で捕まったことで有名なのは、「仮名手本忠臣蔵」の高師直(こうのもろのう、モデルは吉良上野介(きらこうずけのすけ))ですね。この人もすぐに斬首されています。
[は]死刑判決を受けていない人物が志願し、一緒に処刑されている(○)
■国松は、生後すぐに若狭京極家に預けられ、ある人物の養子にされたとのこと。正室である千姫をはばかったという説があるそうです。
□大坂冬の陣が始まると、秀頼の隠し子ということで周囲に悪影響があることを恐れたのでしょうか。常高院(じょうこういん)とともに大坂城に戻ります。常高院は大物です。母親が信長の妹お市の方、お姉さんが茶々(秀吉の側室、秀頼の母親淀君)、妹が江(ごう、於江与の方、2代目将軍秀忠のカミサン)です。若狭京極家の当主京極高次(たかつぐ)の正室だった人らしい。高次は6年ほど前に亡くなっており、このころは仏門に入っていたようです。
□夏の陣のとき、国松や乳母とともに大坂城を脱出した田中六右衛門という人物は京極家の武士だったようです。傅役(ふやく、もりやくとも)と呼ばれる幼い世継ぎの後見人とも目されています。京極家は関ヶ原の戦いで徳川方につき、大きな戦功を挙げた家柄だそうです。そのためなのか、田中六右衛門はおとがめなしだったようです。
□六右衛門は国松に同情していたのでしょうか。あるいは武士としての筋を通し、主家にわずかな瑕疵(かし)も残すまいとしたのでしょうか。志願し、国松や乳母と一緒に処刑されたそうです。
[に]鹿児島に落ちのびており、長く存命したという説もある(○)
■現在の鹿児島市には、「豊臣秀頼の墓」という怪しげな遺跡が残っているそうです。「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて、のきものいたり鹿児島へ」という俗謡もあるらしい。関ヶ原の戦いで宇喜田秀家(うきた ひでいえ)が島津家に匿われました。それ以来、秀頼、国松など豊臣方の重要人物が亡くなったあとでは、鹿児島に落ち延びたという噂話が語られているらしい。そうであってほしいという願いがこめられているのかな。
[ほ]のちに幼名を国松という徳川家の重要人物も非業の死を遂げている(○)
■この人物は2代目将軍秀忠の息子徳川忠長(ただなが)です。お兄さんが3代目将軍の徳川家光だそうです。幼名は国松だったらしい。
□国松君は幼いころから利発であり、かつ運動神経もよく、容姿端麗だったらしい。何をやらせても兄の家光をしのいだといわれます。で、母親である江(於江与の方、常高院の妹)が溺愛したという噂です。
□家光の将来を案じた春日局(かすがのつぼね、家光の乳母)は、家光が跡取りであることを天下に示してほしいと晩年の家康に頼んだらしい。駿府から江戸に入った家康が秀忠と面会します。幼かった家光と忠長が陪席しようとします。家康は「竹千代(家光)は徳川家を継ぐ身。国松は竹千代に仕える身分」といって忠長を退席させたそうです。
□この日を境にグレてしまったのかどうかはわかりませんが、長じたのちの忠長は部下や領民、動物などに対して奇矯な振る舞いが多くなったといわれます。最後には高崎城に幽閉されていましたが、自ら命を絶ったそうです。28歳ぐらいだったらしい*3*4。なお、Wikipediaの徳川忠長の項には、忠長の奇矯な振る舞いについては「信憑性が低い」という説が掲げられています(100619現在)*3。家光側による世論操作という可能性があるのかな。
□幼名が国松である忠長氏の言動や死に豊臣国松の祟りが関係していたのでしょうか。徳川忠長の死に顔に豊臣家の家紋である五三桐(ごさんのきり、口絵参照)の形をした血しぶきが残っていたこと。あるいは死の前日に忠長が子供の幽霊を見たといっておびえていたこと。また、忠長の乳母と後見人が、忠長の死後、相次いで横死したこと。この3つがいずれも事実であれば、祟りの可能性も考えられるかもしれません。でも、これらはいずれも素町人が即興ででっち上げたことです。きっとそんな祟りはないんでしょうね。失礼しました。
◆参考*1:HP「豊臣国松 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%9B%BD%E6%9D%BE
◇*2HP「常高院 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%AB%98%E9%99%A2
◇*3HP「徳川忠長 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7
◇*4HP「徳川家光が弟を殺した理由は?」
http://blog.q-q.jp/200704/article_32.html

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