秀吉の大恩人丹羽長秀(ながひで)の命日。自ら開腹手術をして結石を除去したの?

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★歴史★
問題:西暦1585年の今日、5月15日。和暦では天正(てんしょう)13年4月16日。織田四天王の1人、丹羽長秀氏がご自宅の畳の上で息を引き取りました。生まれたのは天文(てんぶん)4年(1535年)の9月ごろだそうです。満で勘定するとまだ50歳にもなっていません。信長・信玄・謙信らと同様で「人生50年」を体現しているようです。
■丹羽長秀氏は、15歳ごろから社長に仕えます。失礼、信長に仕えます。天文(てんぶん)22年(1553年)、18歳ぐらいのころに梅津表(うめづおもて?)の合戦で初陣を迎えます。永禄(えいろく)3年(1560年)の桶狭間の戦いにも従軍しています。25歳ぐらいかな。次第に重用され、柴田勝家(かついえ)、滝川一益(いちます/かずます)、明智光秀(みつひで)と並んで、織田四天王の1人に数えられる武将となりました。
■彼の言動が大きく世の中を変えたのは、天正(てんしょう)10年(1582年)のことです。本能寺の変が起こり、信長が亡くなったあとで、後継者を決める清洲会議です。主な出席者は筆頭家老の柴田勝家氏。満60歳ぐらい。光秀を撃ち破って意気軒昂な羽柴秀吉氏。満45歳ぐらい。それに丹羽長秀氏。満47歳ぐらいだったそうです。
■柴田勝家は信長の三男信孝(のぶたか)を後継者に推薦したそうです。信孝坊ちゃんは満24歳ぐらい。柴田勝家と親しかったらしい。秀吉は、信長の長男信忠(のぶただ)の嫡男三法師(さんぽうし)を推薦します。三法師君は満2歳ぐらい。父信忠は祖父信長とともに本能寺の変の際に亡くなっています。二条新御所という場所で敗死したといわれます。
■キャスティングボートを握った丹羽長秀氏は、羽柴秀吉氏に1票を投じます。これで大勢が決まり、幼い三法師が後継者となります。そのお披露目には羽柴秀吉が三法師を抱いて登場したそうです。柴田勝家や滝川一益ら、他の重役たちも三法師と秀吉に頭を下げることになりました。結局、後見人の羽柴秀吉が天下を握るわけですね。
■NHKの「その時歴史が動いた」という番組によると、羽柴秀吉は、丹羽長秀を事前に買収していたともいわれます。長秀は支持の見返りとして近江の国の西半分を貰う密約を秀吉と結んでいたそうです。
■本日は、秀吉の天下取りに重要な役目を果たした織田四天王の命日にちなんで、丹羽長秀氏に関するクイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]家紋はシンプルな「○」である
[ろ]木下藤吉郎を羽柴秀吉へと改名させた人物である
[は]丹羽家は築城術に長けており、安土城も丹羽長秀が普請した
[に]秀吉に対して謀反ありとして切腹させられた
[ほ]織田四天王の中で唯一明治まで生き残った家系である
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]と[ほ]が正しい
説明:
[い]家紋はシンプルな「○」である(×)
■正しくは、シンプルな「×」であるだそうです。参考資料*2によれば、少し縦長で、英字の「X」に似た意匠ですね。恐ろしく単純でわかりやすい家紋です(下の図左側参照)。
□ちなみに、シンプルな「○」だけの家紋というのもあります。江戸時代、伊予大洲(いよおおず)藩を治めていた加藤家の家紋です。ただし、線は肉厚で、真ん中の空白部分のほうがずっと狭い意匠になっています(右側参照)。初代藩主は加藤貞泰(さだやす)という武将らしい。廃藩置県まで改易・転封などを受けず、ずっとつつがなく相続できたので「○」なのかな。時間の順が逆か。
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[ろ]木下藤吉郎を羽柴秀吉へと改名させた人物である(×)
■天正(てんしょう)元年(1573年)、浅井長政(ながまさ)や朝倉義景(よしかげ)が滅んだあとで、木下藤吉郎は羽柴秀吉へと改名しています。満36歳ぐらいだったのかな。でも、丹羽長秀の勧めで改名したという話は、あまり聞きません。そもそも、秀吉という名前の最古の記録は永禄(えいろく)3年(1560年)に見られるそうです。桶狭間の戦いがあった年ですね。満23歳のときです。木下姓を羽柴姓に変更したのは天正(てんしょう)元年(1573年)のようですが、藤吉郎を秀吉に変更したのはもっと前かもしれません。
□ともあれ、丹羽長秀は秀吉に親しみを感じていたらしい。秀吉は、丹羽の「羽」を前につけ、柴田勝家の「柴」を後にして合成した苗字を名乗っています。筆頭家老よりも自分を重視してくれたわけですから、丹羽長秀としては気分がいいわけですね。逆に柴田勝家は愉快ではなかったでしょう。ひょっとしたら、秀吉は将来の柴田勝家との衝突を予想し、味方を増やしておいたのかもしれません。
[は]丹羽家は築城術に長けており、安土城も丹羽長秀が普請した(○)
■丹羽長秀は、軍事の専門家として優れていたかどうかについては疑問もあるようです。信長も方面軍司令官には任じなかったらしい。たとえば後輩の秀吉は中国攻めで司令官をまかされています。柴田勝家は北陸方面軍の総司令官です。
□でも、軍事以外の面では功績が大きかったらしい。たとえば安土城の普請奉行は丹羽長秀だったそうです。各方面軍の補給路の確保や現地の戦後処理などに働きがあったとのこと。ひょっとしたら平和な時代に能力を発揮する人かもしれませんね。
□丹羽長秀の息子、長重(ながしげ)が江戸時代に入ってから大名に取り立てられています。この人も築城が上手だったらしい。棚倉城(現福島県)、白河小峰城(同)や二本松城(同)など、名城と呼ばれる城を築いたそうです。
[に]秀吉に対して謀反ありとして切腹させられた(×)
■信長の死後、秀吉のよき相談相手となった丹羽長秀は、越前と加賀に120万石を与えられていたそうです。天正13年(1585年)に病を得て衰弱していくと、自ら腹を切って生涯を終えたらしい。
□「丹羽家譜伝」という記録によると、短刀で腹を裂き、鳥の嘴(くちばし)のような形をした病根をえぐり出し、「こいつがおれを苦しめていたのか」といってそれを砕いて死んだらしい。
□破れかぶれの外科手術を行なったのが事実かどうかはわかりません。でも、「病死は無念」といって腹を切ったというお話は、当時の他の記録にも見られるそうです。戦場で死ねないのが武士として無念であるということらしい。
[ほ]織田四天王の中で唯一明治まで生き残った家系である(○)
■織田四天王のうち、明智光秀はご存じのとおり、中国から急いで戻って来た秀吉に仕留められました。柴田勝家はご存じのとおり、秀吉と対立しましたが、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城でカミサンであるお市の方と一緒に自殺します。勝家満61歳ぐらい、お市の方はまだ36歳ぐらいでした。このとき、伊勢で反秀吉として蜂起した滝川一益は降伏し、出家させられています。満58歳ぐらいだったのかな。
□滝川一益はのちに秀吉側について戦うこともあったようです。天正(てんしょう)14年(1586年)に越前で死去したと言われます。子孫は家康に仕えたこともあったようですが、大坂の役で真田信繁(のぶしげ、幸村とも)の女たちをかくまったとして改易されたとのこと。以後、大名としての滝川家は絶えたらしい。
□丹羽家は、丹羽長秀の息子長重が陸奥白河藩の初代藩主となりました。光重(みつしげ)が後を継ぎ、のちに二本松藩に転封されています。以後は二本松藩の藩主として明治を迎えたようです。
□二本松藩では、節分の豆まきの際、「鬼外(おにそと)」と唱えたといいます。「は」を抜いたわけですね。「お丹羽外」とならないように、藩士や住民が気を遣ったのかな。
◆参考*1:HP「丹羽長秀 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E7%A7%80
◇*2書籍「日本史こぼれ話200」新書初版165頁、二木謙一(ふたき けんいち)著、SBN4-537-25453-X、日本文芸社
◇*3HP「二本松藩 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E8%97%A9

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